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結果にこだわる

小学校、中学校、高校では何をするにおいても「結果」よりも「過程」が重んじられてきた気がする。もちろん部活などにおいては「県大会優勝!」とか「コンクールで金賞!」とか結果にこだわって物事を行うことは多くあるが、そういったものでも最後に振り返った時にそこに行くまでの過程であったり頑張りが褒められたり評価されることが多い気がする。

実際に私もサッカーの試合においてミスをして負けた試合であったも普段から真面目に練習に取り組んでいるというだけで試合にスタメンで出続けたりできた。もちろん緩く活動をしている組織という点はあっても負けたという「結果」に関して何か責任を取ったりすることはなかった。

しかし、大学生になってから「結果」「過程」よりも重んじられている機会が徐々に多くなっているように感じる。今は大学四年生でもうすぐ社会人ということもあるが年々そういった思いを感じる機会がたくさんある。

例えば、今私は塾講師のアルバイトをしていてもうすぐ3年が経過するのだが、一番心躍らせる瞬間に時給がどれだけ上がったか確認する瞬間がある。私の塾は生徒に個別で指導した後にその内容をレポートにまとめて生徒に渡すというような形式をとっている。その中で講師によってはすごく雑だな〜という講師もたまに見受けられる。しかし、そうした講師に限って自分よりも時給の上がり幅が大きかったりして「え、なんで?あの講師の方が時給高いん?」って思うことがある。

そう、実際にその講師の方が生徒をよりレベルの高い志望校に合格させていたりするのだ。

つまり、「結果」を出しているのだ。

雑にやっているくせに成果を出していて組織から評価されている人って結構いると思っていて、そういった人たちは実は「結果」にこだわってする方が大切だとわかっている人たちなんだなと私は感じている。なんていうか「上手いことやってるなー」ってすごく思う。

私はそういったタイプの人間じゃないから1つ1つ丁寧に非効率でもやることをやっていかないとダメなタイプだなと感じる。ここブレないようにしつつも「結果」にこだわって物事に挑戦していきたい。


少し逸れてしまったが話を元に戻すと最近思うのが社会に出るということは「結果」が求められる。
ということなのだなと最近気づき始めた。
つまり、そうした「結果」が給料であったり報酬に結びつき社会人というのはそうした報酬が保証されているからこそ、その金額に見合った「責任」を自分で果たさなければならないのだと思う。社会人と学生の大きな差は「責任」があるかないかなのだと私は考えている。

ここが周囲から「過程」を重んじて育ってきた学生と責任を果たすために「結果」を出していかなければならない社会人の大きな差なのだと最近感じることができるようになってきた。

このことに気づいてから自分の中でも結果を出すためであったり目標を達成するためにどうしたらいいかということを考え機会が増えたなと思う。来年から働かなければならないので今のうちからやると決めたことはしっかり結果を出して自分に応えるというような習慣を作っていきたい。

長いですが読んでいただいてありがとうございました。



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