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家族との時間

"人生は有限だ"という言葉を時々耳にする。仕事→睡眠→仕事と、気づけば惰性ルーティンの中で生きている人も少なくない。何に時間を使うかは個人の自由であり、誰かのために時間浪費する事はとても愚かな行為である。

先日、親戚一同で旅行に行った。実に約15年ぶりだ。もうすぐ80歳になる祖父とは毎年正月に集まり飲むのだが、今回は一段と気合が入っており、AM5:00に起きたにも関わらず、24:00まで人生のあれこれを語り尽くしながら杯を交わした。商売に対する姿勢、歴史を学ぶ重要性を永遠と浴びるもはや演説のような時間なのだが、酔っているせいなのかボケているせいなのか、5周ほど同じ話をしている。途中からMessengerやSlackで仕事対応しながら聞いていると、「おい、人の話は聞けよ」と。同じ話を繰り返されているのに、理不尽にもほどがある。

20代、仕事に全力投球していると、なかなか仕事以外の時間を取ることが難しかったりする。しかし、冒頭書いた通り、"人生は有限"なのだ。

先日、余命宣告を受けた叔母さんのお見舞いに行くことがあった。生死を彷徨う経験をしたことがなく、彷徨った経験をある知人がいなかったため、生と必死で向き合っている姿を見て、しばらく涙が止まらなかった。「死」を感じるということはこれほど辛いことなのか、そう思った。この経験をキッカケに自分の中で、人生との向き合い方が自分の中で変わった気がする。

親戚との旅行。ハッキリ言って僕は何も得られるものがない、と思っていたタイプである。1泊2日、たまにしか合わない、たかが血が多少繋がっている方々と、謎に会話をして、謎に仲良しごっこしなければならない惰性の空気感。こういう気遣いが飛び交う上部の空間が僕は大嫌いだ。空気を読めという無言の圧ほどバカバカしいものはない、そう思っていた。

しかし、価値観はアップデートされるものである。「死」という空気感に触れてから、命の尊さについて考え方が変わり、今回の家族行事に参加することを決めた。結果祖父とゆっくり話す事が出来、親戚と話す事が出来、とても楽しい時間を過ごす事が出来た。

"人生は有限"である。なかなか1つの事に集中していると、緊急度が低いイベントには時間を割かなくなっていく。GW、取引先の動きが止まり、職場の連絡が止まる。このタイミングで、重要だった事を今一度見直してみる事が良いのではないだろうか。

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