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こんな世界のまん中で、僕ら2人ぼっちだったね。

2005年8月20日。
数ヶ月前からチケットを買って準備を整えていたライジングサンロックフェスティバルの当日、私は大寝坊をした。

はじめての恋人。はじめてのキス。はじめて男の人の部屋で目覚める朝。
それらが一度にやってきて、私はとても混乱していた。

***

四畳半の部屋にぎっしりと詰めこまれたCDやレコードに、楽器。料金の滞納でガスは使えない。床に散らばった煙草の灰と、ウイスキーの瓶。毛羽立ったタオルケットにくるまって、隣で眠る男の顔を見ていたら涙がこぼれた。
「この人がいなくなったら、私はどうやって生きていけばいいんだろう」
ずっとさわりたいと思っていた肌を撫でて、何度もその感触を確かめた。

夜中から明け方まで、彼と一緒に町を歩きまわっていた。
北海道の短い夏を惜しむように、私が卒業した小学校から、市内全域を見渡せる高台の公園まで、ふたりの住む町を、隅から隅まで一緒に歩いた。

深夜の公園で、彼が私を好きだというのを信じられない気持ちで聞いた。私も彼のことを、ずっと好きだった。
彼は二十三歳、私は十七歳。諦めるしかない恋だと思っていた。

高校を辞めて大検を取得した私は、近所のジャズ喫茶で大学の受験勉強をするのが日課となっていた。彼は、その店の雇われ店長だった。
他に客がいない昼間は、彼の練習するウッドベースの音色を独りじめした。四弦を爪弾く指にふれたいと思う気持ちを、ずっとずっと、悟られないように胸の奥に隠していた。

***

行き先も決められないまま、手を繋ぎ歩いていたら空が明るくなっていた。
あの晩、なにを話しただろう。とにかく二人ともよく笑って、「好きになった人が、自分を好きなんて。こんなことがあるんだね」と何度も気持ちを確かめるように言いあっては、繋いだ手に力をこめた。

鳥たちが鳴きはじめる頃、私の住むマンションへ辿りついた。
「今日からフェスだもんね。もういい加減、帰さなきゃ」彼はそう言って繋いだ手を解こうとして、「でも、帰ってもきっと眠れないよ」と私は笑った。「じゃあ一緒に寝る?」彼は、緊張した表情で私を見つめていた。

朝陽に照らされた彼の顔をずっと見ていたくて、どうしても離れられなかった。家にそっと忍びこんで、フェスのために準備していた荷物を部屋から持ち出し、彼の元に戻った。
「なにもしない?」そう訊くと、彼はひとつ頷いて、歩いて十分のアパートまで私の手を引いて行った。

***

服を着たまま、二人で布団に寝転んだ。ぎゅっと私を抱きしめて、そのまま一ミリも体を動かさない彼の胸に耳を押しつけると、心臓の音がうるさく私の鼓膜を揺らした。
「本当になにもしないんだね」そう言って彼の顔を見上げると、「じゃあ、キスだけならいい?」と尋ねてから、彼はそっと私に口付けた。

十七年というそれまでの人生のなかで、一番幸せな瞬間だった。

***

目が覚めると既に昼過ぎで、隣に彼はいなかった。
携帯を開くと「仕事に行ってくるよ。ちゃぶ台のうえの合鍵、持ってて。ライジング行く前に、店に寄ってね」というメールの後に、私を起こそうとしたのか、何度か着信がはいっていた。

急いで身支度して、部屋を出た。
合鍵をなくさないようにキーホルダーにつけると、実家の鍵と一緒になったそれは、なんだか急に大きな意味を持ったような気がした。

彼の務めるジャズ喫茶に寄ると、同じく常連で友達になった女性がコーヒーを飲んでいて、「まだ出発してなかったの?」と、驚いた顔をした。「気をつけて行ってきてね」と手を振る友達の後ろで、彼が優しく微笑んでいた。

***

会場についても、私はずっと上の空だった。
ライジングサンに来るのも三回目。正直、はやく帰って彼に会いたいと思っていた。

目星をつけていたアーティストのステージをまわって夕方になり、ぽっかりと時間が空いたのでメインステージへ戻ってきた。

タイムテーブルには「フィッシュマンズ」と書かれているし、私はそのバンドが大好きだったけれど、ボーカルの佐藤伸治はすでに亡くなっている。代理のボーカリストは発表されていなかったから、あまり期待をせず後ろの方で、座りこんでステージを見ていた。

1曲目 原田郁子、2曲目 永積タカシと、ボーカルが出て来るたびに会場が沸いて、気づけば私も立ち上がって前へと進んでいた。

さとちゃんはいなくなっても、彼の音楽はちゃんと残っていた。

3曲目、「頼りない天使」を歌ったのはUAだった。

サヨナラ さめた時よ
あの娘が僕を呼んでいたから
終わりさ もう終わりだよ
今日からは 2人ぼっち

やさしい天使が降りてきたら
きっと あの娘は喜ぶさ

なんて不思議な話だろう
こんな世界のまん中で
僕が頼りだなんてね

刻々とオレンジから紺色に変わっていく空の下で、無数の観客を柔らかな声で包みこむUAは、私にとっての天使だった。

彼と一緒に聴きたかったな。ずっとこの空間に浸っていたいけど、彼に会いたい。はやく、会いたいな。
はじまったばかりの恋を優しく見守ってくれるような音楽に、涙が溢れた。
彼が恋人になってくれたら死ぬほど幸せだろうと思っていたのに、私は彼を失うことがこわくて泣いてばかりいた。

「UAがフィッシュマンズに参加していて、めちゃくちゃ良かったよ。一緒に聴きたかった」そうメールを送ると、「いいな。俺も行けば良かった。はやく会いたい」と返信があった。

「この人がいなくなったら、私はどうやって生きていけばいいんだろう」
朝に抱いた気持ちがどんどん深くなっていくことがこわかった。不安をかき消すように、私は朝が来るまで踊りつづけた。

***

永遠につづくと思っていた恋は、四年で終わった。合鍵を返そうとすると、「いいから持ってて」と彼は声を詰まらせた。

恋人同士になった夜から、繋いだ手をぎゅっと二回握ったら「YES」というのが、二人の合図になっていた。「恋は外でしてきていいから、結婚しよう」そう言って彼が繋いできた手を、私は握り返さず、そっとふりほどいた。

毎日一緒にいたせいで、身を切るような熱情は枯れてしまっていたけれど、兄妹のように仲が良かった。「本当の兄妹だったら、こんな思いをせず、ずっと一緒に居られたのに」と彼は泣いて、その背中を抱きしめてあげられないことが悲しかった。

家族以外ではじめて、私の存在を全力で肯定してくれた人だった。
それでも私は、大学で出会った同世代の女の子と同じような、きらきらした恋愛が欲しかった。

大切な人をボロボロに傷つけて新しい恋に走りだす、自分の若さと馬鹿さが苦しかった。

***

私が大寝坊したあの日に、「気をつけて行ってきてね」と見送ってくれた友達は、もうこの世にいない。「彼がいなきゃ生きていけない」と信じていた私は、あの町から遠く離れた場所で、今日もしぶとく生きている。

彼のいたジャズ喫茶は移転して、一緒に暮らしていたアパートは残っているけど合鍵は捨てた。持っていたって、四畳半の部屋のドアはきっともう開かない。

「ずっと待ってる」と言っていた彼は二児の父となり、キスだけで眠れなくなるような恋を、私はもう二度としないだろう。

今年の夏はあの町も、いろんな場所で音楽が鳴りやんで静かだったらしい。
下戸の私は、彼が好きだったウイスキーなんて、未だに飲めやしない。

それでもさ。それでも。
グラスの中身をそれぞれに持ち寄って。いつか生き残ったみんなで、また乾杯できたらいいのにね。



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