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過去を生きていた衝撃

この10月に通信大学生になった。京都芸術大学の芸術教養学科。もともと母校でもある。
システムを理解するのに数日かかった。そして疲れた。

授業内容は面白く、新しい発見がたくさんある。若い頃と違い、経験によりなんとなく持っている知識の点と点が繋がる喜びもある。
中年になってからの大学はなかなか面白い。

今まで、30年間、ずっと、ずぅーっと、デザイン事務所か建築事務所に所属し、主に店舗や住宅の設計をしてきた。アンテナを張り、他のデザイナーとも交流し、講演会、見学会、展覧会にも足を運び、自分でも開催した。若い子らに向かってデザイン専門学校の先生として偉そうなことも言った。

しかぁーし!
アップデートができていなかった。

「今の時代のデザイン」のこと、なんとなく気づいていたことが、きっちり系統立てて整理され、わかりやすい授業になっている。
そして。私が学んだ知識は「20世紀のデザイン」という名の下、歴史上の話になっている。この衝撃!

そりゃそうか、当時はコンピュータで設計してないもん。図面は手書きに青焼き。絵の具やコピックで絵を描いていたもんな。
なんとなんと、こんなに古い人間になる日がくるなんて!
いつのまにか時代は流れ、過去に追い求めていた正解はどこにも見当たらない。
当時はひたすら、ものやカタチに対する「良心」を習った気がする。見た目の美しさももちろんのこと、機能的であること、使い手のシュチエーションをイメージすること。新しさも求められたし、デザインはプロセスだとも習った。だけど、今は人(社会)に対する「良心」を問う。
具体的には、経験であったり、繋がりであったり、行動であったり。目に見えないところのストーリー。職務のカテゴリーは希薄になり、枠を飛び越えたデザイン。
「正解」は時代や環境で変わることは気づいてはいたけど、消えてなくなっているなんて!!というより、文明の利器のおかげもあって小さく小さくなっていて、ほとんど見えない。
誰でも絵がかけて、誰でもデザインして誰でも知識が得れるこの時代に、専門家として何ができるのか?と改めて問われたのです。
どひゃぁー!!
そりぁそうよ。何ができるの私??

この衝撃は嬉しすぎて、久しぶりにわくわくしています。
(とはいえ、この激動の世の中で、色や形に対する「良心」を持ち続けられることは、とんでもなく幸せだとも思っております。)

ということで、まずは大学ノートと鉛筆を買いました。(これも古い?)

さてさて、いつまで続くでしょうか?

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