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「水場」著者インタビュー01 デビューに至るまでの道のり

noteにて無料公開された野鳥写真集「小鳥のくる水場 ぞうき林の小さなオアシス」。撮影当時の思い出や、動物カメラマンとしてデビューした道のり、「チョウゲンボウ 優しき猛禽」「野鳥記」に至るまでの経緯などなど著者・平野伸明に、いろいろな話をお聞きました。
全6回、どうぞお楽しみください。インタビュアーはしげゆかです。

平野 伸明(ひらの・のぶあき)
映像作家。1959年東京生まれ。幼い頃から自然に親しみ、やがて動物カメラマンを志す。23才で動物雑誌「アニマ」で写真家としてデビュー。その後、アフリカやロシア、東南アジアなど世界各地を巡る。38才の頃、動画の撮影を始め、自然映像制作プロダクション「つばめプロ」を主宰。テレビの自然番組や官公庁の自然関係の展示映像などを手がける。

主な著書に「小鳥のくる水場」「優しき猛禽 チョウゲンボウ」(平凡社)、「野鳥記」「手おけのふくろう」「スズメのくらし」(福音館書店)、「身近な鳥の図鑑」(ポプラ社)他。映像ではNHK「ダーウィンが来た!」「ワイルドライフ」「さわやか自然百景」や、環境省森吉山野生鳥獣センター、群馬県ぐんま昆虫の森、秋田県大潟村博物館など各館展示映像、他多数。
→これまでつばめプロが携わった作品についてはこちらをどうぞ。

「小鳥のくる水場」を撮影した時期


ーー平野さんの動物カメラマンとしてのデビューは、1982年の動物雑誌「アニマ」ですが、その2年後には書籍「小鳥のくる水場」を出版されています。「小鳥のくる水場」(以下「水場」)も、デビュー以前から取材されていたんですか?

(平野)そうです。この記事でも書きましたが、小学生の頃すでにカブトムシやクワガタムシを捕りに「水場」の舞台となった雑木林にはよく通っていました。「水場」をテーマにしようと思ったのは、18歳の頃にサンコウチョウと出会って、さらにその鳥がダイビングで水浴びをするんだということを知って、これは面白いんじゃないか、撮影してみたいと思ったんです。
でも、先に撮影をしていたのは、「チョウゲンボウ」ですね。

平野伸明 略歴
1959年…東京生まれ
1982年(23歳)…動物雑誌「アニマ」でチョウゲンボウの写真でデビュー
1984年(24歳)…書籍「小鳥のくる水場」出版
1990年(30歳)…書籍「チョウゲンボウ 優しき猛禽」出版
1997年(37歳)…書籍「野鳥記」出版
・・・インタビューは野鳥記を出版した時代までお伺いしました。

半年アルバイトをして、半年は撮影に専念。

――ではまず、「チョウゲンボウ」を撮影していた頃のことを聞かせてください。

(平野)動物カメラマンになると決めた僕は、18歳からは半年間アルバイトをしてお金を稼ぎ、半年間はその資金で撮影というタイムテーブルで活動していました。
ひと月20万円位を目標として、半年間で120万円。その120万円で半年間撮影する、というのを繰り返していたんです。

――仕事する時は仕事して、撮る時は撮ると決めていたんですね。

(平野)そうです。資金稼ぎの半年間はまったくカメラを握らなかった。目一杯働いていたので、その時間もなかったです。一日14時間位働いたかなあ。仕事は長距離運転手、パンの配送、ゴミの収集業、塗装業、漬物の行商、探偵助手、ホテルのフロント・・・とにかく何でもやりました。

――平野さんは、大学時代は山梨県の甲府のマクドナルドでマネージャーもされていたんですよね。

(平野)そう(笑)、甲府市内にあった甲府岡島店です。あの時のマックは営業が21時までで、だいたい17時から入って、22時半に一旦終わり。30分休憩後に今度は23時から店の清掃をするメンテをやって、終わるのが翌日の朝7時。
これじゃあ労働基準に引っかかっちゃうと、歴代の店長たちが気を利かせてくれてタイムカードを2つ作ってくれた。マックだけでも18万円位は稼いでいたと思う。

――当時だからこそできた働き方ですね。何故、バイトはマックを選んだのですか?

(平野)マックのバイトで良かったのは、勤務時間を選べたからです。昼間に撮影に行こうと思えば行けたからなんです。
ただ、やっぱり昼間は眠くてね(笑)。でも撮影はしなくても、毎日フィールドには出ていた。それがチョウゲンボウの行動を把握する上では大きかった。たとえ撮影ができなくても、チョウゲンボウの生態や現地の様子がいつもわかっていたから。

「よし、はじめよう」と思った瞬間に5割は出来ている。

――まだデビュー前の未知数の頃。どうしてこのように強い意志で活動できたのでしょう。

(平野)それは、生きものたちが好きだったからです。自分にはこれしか生きる道がない、ほかのことは能力が無い、そう思っていました。

それとーー当時、よく読んでいた本の一つが柳田邦男さんの本です。「フェイズ3の眼」とか「零式戦闘機」「零戦燃ゆ」とか。
著書の中に「何か商品を開発するときに、「これを作ろう」と思った瞬間にもう半分はできている」という言葉があった。うろ覚えだけど、何故かこの言葉が一番印象に残っていたんです。要するに、「よし、やろう」と踏み出すことがめちゃくちゃ大事なんだということです。

例えば「水場」の本なら水場の本、「チョウゲンボウ」の本ならチョウゲンボウの本を作ろうと思った瞬間にもう半分は出来ているんだ、そんなふうにいつも思うように、要は自分に暗示をかけていたんだと思います。

「チョウゲンボウ」だけでデビューしても何かが足りないと思った


――「チョウゲンボウ」と「水場」の撮影が同時進行していた時もあったのでしょうか。

(平野)もちろんありました。

――「チョウゲンボウ」は山梨で、「水場」は埼玉・・・それを行ったり来たり!しかし、チョウゲンボウだけに集中しなかったのは、どうしてでしょう?

(平野)「チョウゲンボウ」をやろうと決めた時にふと思ったのは、チョウゲンボウだけでデビューしても何かが足りないんじゃないかと思ったからです。要するに一発屋みたいにね、例えば歌手もそうでしょう。1本しかヒット曲がないのと2本のヒット曲があるのとじゃ雲泥の差だと思うんです。

――最初にすべて出し切ると、なかなか次を出すのが難しい。

(平野)そうなんです。デビュー作も大事だけど、一番肝心なのはデビューの次。一発屋で終わるのか、それとも継続していくのか、この道を職業にするなら、それが大事だと思っていたんです。

だから、なんとかチョウゲンボウともう一つテーマを持ちたいなと。それで、「水場」もやろうと思ったんです。でも、それもこれも好きだからです。チョウゲンボウも水場にくるサンコウチョウもぼくが大好きな鳥だったんです。大好きだからこそ出来たと思います。「好きこそものの上手なれ」っていうけど、好きであることが一番大事なんです。

――好きでなければ、じっとその場に留まって観察するのも辛く感じると思います。

(平野)そうです。好きじゃなければこの世界はだめです。生きものへの思いやりや愛情やリスペクトの気持ちがあるかどうか。生きものたちもそれに敏感なんです。結局、それは作品に大きく影響するんですよ。

動物雑誌アニマ編集部へ初持ちこみ

――撮影したチョウゲンボウの写真を、どうされたのか教えてください。

(平野)チョウゲンボウを撮影しはじめて4年が経った頃、目指していた求愛の撮影がようやく成功しました。それで、1982年の8月初めのある暑い日、よし、今日、平凡社のアニマ編集部に電話しよう、と決意して、電話しました。
「突然お電話してすみません、もしよろしければ撮影した写真を見て頂けませんか」って。そしたら電話に出たのがたまたま編集長だったんです。

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