プラネタリウム
今年は誰にも言わず誕生日を迎えた。人には、一年に一度しかない素晴らしい日なのだからそういう事はきちんと伝えて頂戴と言う癖に、と、過ぎてから気づいた友達は言った。それから少し、心配された。
「まだ、あの日の事を」
ため息交じりに響いた言葉に返事はしなかった。答える代わり
『今年は、東京の桜の開花宣言と同じ日だったから、安心して』
あなたという人は、と、呆れた笑いが聞こえた。その日は特別な日でもある。生きている事に感謝がないわけではないが、生きていてよい、とも特段の肯定を感じているわけでもない。少々、他人よりも複雑なのだ。しかし、私の代わりに眠っていた桜は綻び、芽吹く春を喜ぶ。
私が何も告げなくても、主人は自分の誕生日のようにはしゃいで、どう過ごしたいかを聞いた。
「毎年と同じでいいわ」
と返事をすると、世の中はこうだし、毎年のようにディナーに出向くわけにはいかないので、と、私の好きそうな色とりどりのお魚と、華やかなサラダ、それからタルト生地にうんと盛られた苺のパイを用意してくれた。ドレスコードはなかったし、特別な日だけにつける香水も、ネックレスも、持ち出さない自宅にて、目に鮮やかで豪華な食卓を囲む事となった。
「のんびりしてて、良い誕生日。もう祝われるような歳でもないけど、ありがとね」
と返事をした。この状況で外出も厳しくなっていても、毎年行く場所には今年も行くのでしょう?と尋ねられたので、その予定だと返事をすると楽しんでいらっしゃい、と、お小遣いまでくれた。
私は、ある誕生日の日から、必ず、プラネタリウムに出向く。誕生日、どうしたいかと尋ねられたら、大好きな映画よりも、プラネタリウムを選ぶ。私にとっては、特別な場所だ。数年前まで住んでいた場所の空を見上げれば、それはそれは!夥しい星の群れが眺められたものだけれど、ここ東京、となると、そうはいかない。でも、実は私は、草っぱらに寝転んで見上げる星空よりも、用意されたプラネタリウムの極上感を好んでいる。昆虫アレルギーがあるからだ。全ての虫に対して反応するわけではないものの、人を好んで噛みそうな虫には反応する。美しい星に包まれたい気持ちと、何かしらの注意が必要だ、と気を張っていると、自然の美しさ以前に、生命の危機側に思考が向く。そんな事もあって、プラネタリウムは私の特別な場所となった。
自分が生きているという事を確認する日が誕生日ならば、何故、生きているのか、も同時に考えなければならなくなる。生きている事を悔いているわけでもないし、死にたいとも最近は思わなくなったが、私の人生には、ひとつの大きな罪がある。それはあなたの罪ではない、と、どこの誰が言おうとも、それは当事者であればきっと言えない台詞であり、言ってはいけない台詞でもあり、私はそれでも生きているのだから、引き受けねばならないのである。そうした事を、かれこれ十数年、抱えている。時が経つにつれて、和らいだ部分もあれば、自分ばかりが歳を重ね、申し訳ない気も、半々に、いつもある。
今年は次女と長女も一緒に行きたい、というので、連れて行ってやる事にした。どちらかというと、次女の方が乗り気で、そんなに星が好きなロマンチストな少女だったかしら?と思いきや、あんまり楽しみ方がわからないけどね、と言うので
『星を知ろうとするのもひとつだけど、一番は、何も考えない事だよ』
と言うと、よくわからないような薄い目をした。三人娘の中で、次女だけが一重の涼しい目をしている。私は羨ましく感じてその目を褒めるのだけれど、本人は納得がいかないらしく、すぐにむくれるので、褒めずにおいた。
開演前に長女が
「なんでだか知らないけど、ママは毎回すごく泣くから、そこも見どころ」
と付け加えた。だから私は
『泣く理由?いなくなった人に、会えるからよ』
と答えると、長女はとても驚いたように
「ふぇー!!神は絶対信じないのに、そういうとこは、信じるんだ!」
と素っ頓狂な声をあげるので
『地球に届いている光は、今の光じゃない、昔のものよ?それは空がある限り続くでしょう?この先、地球がまだあるとしたら、今は先で光るのよ。私達が感じる時空間なんて、地球上のものだけで。存在は、近くなったり遠くなったりする。時の概念なんて、宇宙に関係ないわ』
と言うと、なるほど、そう考えたら、それは泣ける、と納得していた。長女の歳にもなると、誰かの抱える叶わなかった色々が理解できる。私はあの部屋の、テレビの横にあった、大きなぶ厚い宇宙図鑑を思い出す。考えが纏まらない時には、あの宇宙図鑑を広げては振り返って、ほどけた笑顔を寄こす人を、私は知っていた。
席についてからの本開演まで、満開の桜がはらはらと舞う演出がなされており、なかなかゆっくりと桜も眺められない状況になってしまったので、綺麗ね、美しい、と見蕩れていたら、長女と次女が、桜は別れの季節、という意見と、桜は始まりの季節、と交互に意見を出し合った。同じ物をみても、人にはそれぞれ違う感覚があり、私にはあまり時の概念が備わっていないので、それは四季を告げる訪れの花であって巡るものとしか認識していなので、それらは彼女達の経験で語られるのだろうと思う。何度も何度も繰り返す四季の中で、昔ママと星を見に行ったよね、と語ってくれると有難いと思ったので、土産話にやっぱり今回も泣いておくべきだろう、と思った。
本開演後、吸い込まれるような宇宙にあっという間に投げ出され、あの星も、あの星も、今より古い時間に輝きだして到達したのだ、と思うと、人の持つ時間などは限られているけれど、いつかどこかで、あの日の事も、ああして輝いて誰かの足元を照らしたり、見上げた人を楽にしたり夢をみせたりして、私達は終わりのない時間を歩くかもしれないね、と少し、笑ってしまう。この世で出会った人や、全ての出来事が、時折、訪れては胸を擽り、そこでみる景色は、日常で繰り返す哀しみや辛さなどなく、楽しかった時の事ばかりで、心が少し軽くなる。あの人ならば言うだろう。
『君が幸せでいてくれたら、僕はそれでいい』
と。その声に許される。それが作り物の星だとしても、それで心が楽になるのならば、それでいいのだ。天の川は死者の道とも言われた。そこを渡るのが時の上で遅いか早いかの違いだけで、私もいつかその道を辿る。その時に、色んな事があったけどとっても生きたよ、と会ったらその人に言おう、と思っている。地球の時間と宇宙の時間は違うから、君はそんなに罪深く感じる必要がないんだよ、と言われている気にもなり、誕生日でしたと告げると心から祝ってくれそうで、時間に、星に、感謝する。
今回はオーロラが見られたりして、それは誰もいない教室の窓際の席で、風を孕んでふわりとカーブを描いて揺れた、薄い薄いカーテンを彷彿させて、憧れていた女の子がひとり泣いていた放課後を思わせた。あれだけ順風満帆な、育ちも良くて、顔立ちもスタイルも、それから頭も、全てが整っていた子だったのに、こんな人でも苦しむ事があるんだな……と思った放課後の、揺れていたカーテンに似ていた。泣き腫らした目の縁が紅く滲んで、綺麗な唇の形をしていた事も、こちらが不安になるほどに儚く、この人大丈夫かしら、と、とても心配になった事などを断片的に思い出させてくれた。儚くて、脆い雰囲気がとても魅力的でもあったのよ、と、思い出した事を星達に胸の中で話しかけてみたりもして。星降る景色は簡単に時計の輪郭をぼかす。そんな会話でも、あの人の事だから、きっと
『君の見て来たものは全部知りたい』
と言うだろうと考えながら、うっとりと、時が過ぎた。今、会っているから、会いたいとは思わない。私は私の形を失くす。あの時の、あの人と同じ、葬儀のすぐ後にはぴんと来なかった独りの部屋に残されて、しばらく留守にしていた部屋の隅の塵をみた時、どっと現実が押し寄せて、本当に居ないのかどうかを確認するのに、ずっと宙に向けて名前を呼んでいた事がいまでは懐かしい。形ない事で、その存在が全て消え去ったのだ、と、その時には感じ、今では何よりもその存在が大きい事も知っている。人の体など、入れ物に過ぎない。多くの星を見ていると、体の輪郭が溶け出してしまっても、私は私に違いないので、形なんて大した意味を持っていない。
いつだったか、あの人が、あまりに私にある全てを求めるので
「全部を知ってしまうと面白かったものも、面白くなくなるかもしれないよ?」
と言ったら
『好きな映画は何回も観るタイプだから』
と笑った事があったけれど、いま思うと、地球上での時間は限られているのだから、出し惜しみせずに全部あげてしまえばよかったな、という事と、これだけの星があるのに、これだけ人もいるのに、私達はよくもまぁ!出会って知り合って、私達を形成したのだな、と不思議な気分になって、ちょっとだけ、神はもしかしたらいるのかもな、なんていう神秘的な気分にもなった。
大きな図鑑を眺めては、誰が宇宙みたいなものや、人間みたいなものを作ったと思う?と私に聞いていた声に、私はただ、たまたまでしょ、偶然、なんて笑って答えたけれど、たまたま、や、偶然で出会いがもたらされて、その相手と一生分の恋をするだなんて事、実際にあり得るのだろうか、と不思議にもなる。だからこそ、私達は、愛し合うのかもしれないけれど。きっとあの人は言う。
「君はいつも聡明なのに、たまに僕を誤魔化そうとする。」
と。別の回答を求めていた事も知っていて、素っ気無くそう答えたら、私が言葉を誤魔化した、と見破った。全部把握するなんて不可能に近いのに、私達は日々、それをやってのけた。
「もし一生が80年だとしたら、もう20年は逃した事になる。残りの60年なんかで、君を全部知ってるなんて考える事が、どうも納得いかないんだよね」
『なんそれ…どういう理論なのよ。今、知ってたら、それでよくないの?だめなの?』
宇宙には、こんにちわも、さよならもなく、一秒は一秒だ!なんて事はないから、誤魔化しながら、残りを生きるわ。そう思える今日の日まで、要した時間はどのくらい?そこにある時間はもう、私の物とは違うのだから、私にある十数年はあなたにとったらたった二分、なんて事も、あり得るかもしれない。
あの頃、あの部屋で、私は嫌という程、秒針が落ちるのを見ていた。いつになったら戻ってくるの?これをぐるぐる戻してみたら何もなかったって事にはならないの?私の時を止めてみたらどうだろう?
色々が過ぎて、あなたならこう言うだろう、の答えを求めたら、私は私の本質を失くさずにここまで生きて来れたし、相手はあなたとはいかなかったけれど、愛されて、愛すべき命も頂いた。だから、私は罪が重いと感じるのだ。信頼と信用がなければ、ここまで私自身を生かさなかった。忽ち、殺してしまっただろう。そんな人が、私よりも、私が原因で、先に逝くなんて。それから、私は私の目で見た物を届けようと思い、真剣に生きています。どうしても、あなたに、流石だね、と言ってほしい。言わせたい。そこに私の価値があり、あなたの愛した私は、あなたをがっかりさせないように、生きるしか、ない。だから、生きている。
一年の特別な日に、自分の存在の理由を問いに行く。外に出たら雨だった。自然の星は見られない空の下、私は作り物に願いを込めた。どうかこの先、残りを見守って下さい、と。地球は雨に濡れても、私は晴れやかに颯爽と、地球の時間を歩いて、出来る限りを生きたい。来年もまた、プラネタリウムで会えますように。