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Sound Dialogue: Maarten Goetheer

近年アジアの音楽シーンの興隆が目覚ましく、アジアの様々な都市でフェスティバルの開催や新しいアーティストやプラットフォームが生まれている。日本で未だ可視化されていない、アジアのシーンに焦点を当てながら、未来のアーティスト創造やシーンの活性化へのヒントを探り、パンデミック以降も盛り上がるアジアのシーンを伝えるために、Tsubaki fmが新たなプロジェクト「Sound Dialogue」をスタート。
第1回はアムステルダム生まれのDJ / プロデューサーのMaarten Goetheer。17歳の時からDJ活動を始め、地元のクラブやDJコンテストなどでの優勝の後、アジアの音楽カルチャーに惹かれタイ、バンコクに移住。10年以上の活動を経て数多くのアジア人アーティストとコミュニケーションを図り、現在はタイ最大規模の音楽フェスティバル 「Wonderfruit Festival」やバンコクのローカルラジオ「Sabai Sabai Radio」のプログラムを担当している。
オランダ国籍ながらアジアのシーンをこよなく愛し、現在もローカルシーンに深く携わっている彼が見る様々な視点のカルチャー、自身のルーツとなる音楽や現在の活動まで語ってくれた。

Maarten Goetheer

-まず初めに自身の音楽的なルーツやバックグラウンドについて教えてもらえますか?

父がジャズのピアノをやっていて、16歳のころからジャズトリオで演奏していたので常に家庭の中で音楽が溢れていました。なので気付いた時にはもう興味を持っていましたね。
オランダのハーグという街で開催されていた「North Sea Jazz Festival」に父が連れて行ってくれて、そこでイギリスのサックス奏者コートニー・パインがDJと一緒に演奏するのを観たんです。実際その時からDJになりたいと思っていましたね。インターネットが流行る前の時代だったし、クラブにも行ったことがないまだ15歳の子供だったので、父と行ったコンサートのステージでDJがスクラッチしている姿を見るのは衝撃的でした。(その時のDJは同じくイギリスから来ていたポゴというDJでした) 彼の姿に憧れて、家に戻って姉が持っていたターンテーブルを借りてスクラッチをしようとしたんですが、上手に擦れずプレイヤーを壊してしまったんです。その後、姉は1週間口を聞いてくれなかったんですが... 私の音楽の旅はそこから始まったような感じです。

-それで、より音楽に興味を持ち始めてレコードを掘ったり、楽器を演奏し始めたのでしょうか?

姉は私よりも5歳ほど年上で、彼女よりもさらに年上の彼氏がいたんですが、幸運にも彼は昔ながらのB-BOYだった。彼は音楽オタクで、基本的に私の家に来ては音楽についてのあれこれを教えてくれて、コールド・チリン・レコードやビッグ・ダディ・ケイン、MCシャン、トライブ・コールド・クエストだったり、幅広くオールドスクールなヒップホップのレコードを譲ってくれました。彼は同時期にトリップ・ホップという当時の新しいジャンルにもハマっていて、レーベルだとモ・ワックスやニンジャ・チューンなどがありましたね。実際、私がDJクラッシュのような日本人のDJを知ったのもそれが初めて。モ・ワックスから出てたDJクラッシュのアルバムを持っていて、ドラムンベースにもハマってましたね。当時、ジャングルからドラムンベースの移行期の中でLTJブケムが自身のコンピレーション「Logical Progression」に、インディアの名曲「Love & Happiness」のヴォーカルをドラムンベースにサンプリングした楽曲(Peshay - Vocal Tune)を紹介したことが後々、私にハウスミュージックを紹介してくれる流れにもなってますしね。
なので、音楽的な影響を考えると、姉の彼氏には本当に感謝しています。若いってこともありますが、音楽に情熱を持っている人と出会うと「なぜこの人はこんなに音楽に夢中なの?」と興味をそそられますよね。なので、ヒップホップを始め多くのジャンルに惹き込まれたんです。また、ナイトメアズ・オン・ワックスも自分にとって大きな存在でした。特別な雰囲気を持った彼のアルバム「SmokersDelight」はかなりの時間を費やして聴いていましたね。

-挙げてくれた多くのアーティストはUKを拠点にしていますね。パーティーやフェスティバルの為にロンドンやブリストルに行ったのでしょうか?

アムステルダムとロンドンは互いにとても近くて、それぞれの影響力が強いんです。私が遊びに出はじめた頃は、まさにドラムンベースが来始めた時期でした。音楽のスタイルとしても本当に出てきたばかりだったので、この特別なサウンドや皆の踊る姿にとてつもない衝撃を受けていましたね。想像できると思うんですが、若くしてこの新しいサウンドを体感することは自分にとって本当に印象に残る出来事だったんです。それからオランダはハウスミュージックもとても有名で、アメリカとイギリスに次ぐ強い熱気だったと思います。私と兄は当時アムステルダム最大のクラブだった「RoXY」というお店に通っていました。ハード・ソウルや、ローグ、エリック・EといったDJがいて、彼らは皆オランダハウスミュージックのパイオニアでした。興味深かったのが、それらの音楽を「メローハウス」と呼び、「Outland Records」というレーベルも存在しました。ですが、メローハウス自体は世界中で使われていたジャンルの名称ではなかったんです。地元の人達が140BPMくらいのハウスを皆「メロー」と呼んだり、「ガバ」と呼んだりした人もいましたね。
クラブでの体験は私の興味を沸かせ、遊びに行くだけでいつも勉強になるような、強力なローカルシーンがアムステルダムにはありました。Rush Hourが始まった頃には、アンタルだけでなく、KC・ザ・ファンカホリックらが「Kindred Spirits」のイベントをスタートさせたり、ステヴェン・デ・ペヴェンや、アムステルダムのレッドライト・ディストリクトなど、とにかく色々と始まって、若い頃の自分にとっては本当に刺激的な日々でした。

-それは2000年代の初め頃だったんですか?

もう少し早いかな、私が遊びはじめたのは90年代後半で、DMCのコンテストがあったときは1997年でルーキーチャンピオンになったりもしました。思い返すと面白いんですが、「North Sea Jazz Festival」でポゴを見たときに幸運にもビデオテープにその時のパフォーマンスを録画していたんです。それを見返しながら彼がどんな動きをしていたか学ぶことができた。今でもその時使っていたパブリック・エネミーのレコードを覚えてますよ。ですが、まさか2枚使いしているなんて気づかなくて、理解ができなかったんです。当時はYoutubeもなければインターネットで調べることもできなかった。なので、理解するまでとにかく練習しましたね。実際にポゴのプレイを目の当たりにしてジャズと混ざってると体感した時、16歳の子供にとっては衝撃だったでしょう。それが本当の意味での始まりでした。

-DJを始めてから自身のパーティーを地元のローカルシーンで始めたんですか?

そうですね。当時のRush Hourストアの近くに「Bitterzoet」(英語でBittersweet)というクラブがあって、そこで最初のレジデンシーがスタートしました。アムステルダムはとても競争が激しくて、自分の名前を少しずつ上げていかなければならないので、レジデンシーを持ったことが信用へと繋がっていきました。当時のアムステルダムは年上世代のDJ達が本当に良かったのですが、どうにか自分も成功を収めつつ、毎月素晴らしい夜を作り上げることに成功しました。
これが自分の20代前半の出来事で、それから直ぐにアジアへ拠点を移すことになったんです。

-いつアジアに移住したのでしょうか?

まず初めに香港に移住しましたね。アムステルダムの大学で映画の勉強をしていて、そこで交換留学のプログラムがありました。それは素晴らしい経験で、香港に着くなりここは自分の家だと感じる様な不思議な感覚がありました。本当に興味深かったです。自分にとっても移住は大きな出来事で、その時レコードも一緒に持って行ったんです。素晴らしい縁があってDJもさせてもらうことになりました。当時この国はDJカルチャーとしては2度目の波が来ていたところで、最初は1997年に香港がイギリスから中国に返還された時、ピート・トングのような有名なDJが巨大なレイヴパーティーに出演していました。それから、私の知人でもあるアンドリュー・ブル、彼は香港の伝説的なパーティーを創っていた存在です。グレイス・ジョーンズやボーイ・ジョージもその場にいたと思いますよ。それが香港における最初のダンスミュージックの波、そして私が到着した頃にはより小さいクラブを中心としたカルチャーが成立してました。ギルバート・ヤングによる「Dragon-I」がハウスの震源地で、そこでルイ・ヴェガやジャイルス・ピーターソン等にも出会うことになります。
香港は巨大な街なんですが、シーン自体が小さいゆえに多くのサポートがありました。競争が激しかったアムステルダムでは皆チャンスを貰うことができない、自分自身で成功を掴むしかないんです。しかし香港ではこの小さいシーンのおかげで、皆が平等なサポートを受けることができました。私はここで多くの親交を築き上げ、数多くの夜を共に経験したお陰で、生涯の友人とも沢山出会いました。お金を稼ぐためだけにレストランでDJした後に、アンダーグラウンドなサウンドがかかる素晴らしいクラブに通っては、同じフィーリングを共有できる仲間と皆で踊っていました。それは本当に刺激的な時間で、そこでハウスミュージックの持つジャンルとしての広さと音楽全般についても学ぶことができたんです。

-そして香港からタイに移ったんでしょうか?

そうですね、当時、香港の「Kee Club」という場所でDJしていたんですが、そのクラブのオーナーがバンコクで働くという依頼をもらい、ミュージックディレクターを探しているということだったので、彼は私にプロジェクトに参加するように提案して仕事を得る形でタイに移ることになったんです。彼は誰か信用できる人を必要としていたんでしょう。そこで私はバンコクに「Vogue Lounge」というお店を立ち上げ、いくつかの素晴らしいパーティーを行うことができました。オスンラデやキコ・ナヴァーロ、DJヤス、DJファッジなどは私の良き友人でもあり、香港で学んだ全てや、そこで繋がった人たちを、バンコクのいたるところで招聘していました。DJとは別の仕事として、ホテルやクラブのサウンドシステム、DJブースをデザインする仕事も行なっていましたね。

-タイに移住した時の最初の印象はどんなものでしたか?

タイにはピート・ディスコという地元DJのパイオニアがいました。彼は有名では無かったんですが、友人がフリーマーケットのような場所で開催していたフェスティバルで彼が選曲をしていて、彼はディスコの名曲を次から次へとプレイしていたんです。私は友人に「彼は誰なんだい?」と尋ねたら、「あぁ、彼はピート。今日は1978年のレコードだけをかけているんだ」と答え、彼が78年産のレコードをひたすらプレイし続けるというのを目の当たりにしました。素晴らしいアイデアと共に、レコードをかけながら歌も歌っていましたね。私にとってそれは衝撃的な経験で、彼こそが「知られざるヒーロー」だなと思いました。もしアメリカに行けば、ダニー・クリヴィットや、ラリー・レヴァン、トム・モールトン等のように既に語られたストーリーがありますよね。しかしアジアはまた違って面白い。日本はジャズやディスコのシーンが充実していて、色んな情報が残っている一方、タイや香港など他の国々のDJシーンは、写真や映像が残っていません。でも確かにそこにシーンはあったんです。
これが地元の最初の世代で、次にヒップホップがシーンを席巻しました。ローカルでも有名なDJジェダイ(タイのDMCチャンピオン)を含め数多くのDJが台頭し、トムとMDJの2組からなる「ファンキー・ギャングスター」というハウスミュージックデュオも出てきました。「Ministry of Sound」がタイに来た時は彼らがレジデントDJを務めていましたね、それに当時はまだレコードしか売られていない時代でしたから。
私がタイに到着した時はおそらく第3世代くらいになっていたんでしょうか。彼らはもちろんシーンにいましたが、新しい世代の人たちがフェスティバルなどを始め、今では有名となっている「Wonderfruit Festival」などを企画し、様々な世代を巻き込んだショーケースを創り上げるようになりました。現在のバンコクの音楽シーンは本当に生き生きしていて、「More Rice」というレーベルはレコードリリースを含めた様々な活動に加えて、レコード屋までオープンしました。それから、マフト・サイや「ZudRangMa Records」といったような界隈が、モラムやルクトゥンのようなディスコやジャズをタイ独自の解釈と伝統的な歌唱法で表現するジャンルが産まれてきたことはとても興味深い動きです。
なので、私がここに着いた時には、まだ未熟ですが間違いないポテンシャルがあると感じていました。そこで、「Beam Club」という場所でUK産のVoidサウンドシステムをデザインし、それが素晴らしいプロジェクトになりました。木造のフロアにサブウーファーを設置し、デリック・メイやダム・スウィンドル、ペギー・グー、それだけでなくトキモンスタやポモなど様々なジャンルの海外アーティストを招聘することができました。正に、パンデミックの前は本当に沢山の企画を行なっていましたね。

-日本は音楽的な影響をアメリカから多く受けているんですが、タイや香港はイギリスからの影響を受けているような気がしませんか?

間違いなくそう思います。イギリスの影響があることについては、過去に香港がイギリス領だったことを理解することが重要になりますね。それからあなたが言ったように、日本がアメリカから音楽の影響を受けていることも歴史が教えてくれる。日本の方が歴史的に早く始まったこともあるし、戦後にアメリカ軍が音楽を持ち込んで来たことも影響してますよね。タイでも同じことが言えて、ベトナム戦争の際にアメリカ人が地元に駐留したことで、タイのミュージシャンはアメリカの音楽家から多くを学ぶことになり、それが理由でアメリカの音楽を「モーラム」のスタイルでカヴァーするようになったんです。
間違いなく言えるのが、タイの人たちは音楽や踊ることに対して素晴らしい感覚を持っていること。私はタイの人たちのこのような精神が本当に好きですし、彼らは人生を謳歌する為に遊んでいますが、それを強要することもありません。ヨーロッパでは、若いときに何かを選ばなくてはいけないような、社会が特定のライフスタイルに生きることをとても強制していることに気がついたんです。しかしタイではよりオープンで、コミュニティの感覚があり、分かち合うことに慣れているように感じます。この感覚に私は本当に感銘を受けました。これがタイの「サバイ・サバイ」という姿勢です。ここから取った私のラジオの名前(Sabai Sabai Radio)でもあり、直訳すると「手放す」や「気楽に」という意味ですが、言葉の奥には「心を解き放っていきましょう」あるいは「私たちは今この瞬間を生きている」という捉え方もあります。タイではこういう考え方が世代を超えて受け継がれていると思いますね。

-タイのフェスティバル「Wonderfruit festival」のコンセプトについて教えてください。どのようにしてフェスティバルと関わりを持ち始めたのでしょうか?

「Wonderfruit」は、質の高いフェスティバルを開催したいという野心に突き動かされていて、オーナーは実際には大きな企業ベースではなく、少数の人々の手の中にあるため、非常に特別なプロジェクトなんです。コマーシャルになりすぎないことがプログラムの構成と雰囲気の点で多くを助けていて、このフェスティバルは商業性と質の高さのバランスが良く取れた、よりインディペンデントな形で運営されています。私は2回目の開催からDJとして参加し、その後、彼らのことをよく知るようになり、彼らは私のようなタイのローカルシーンの人々に何らかの責任、チャンス、そして機会を与えてくれました。
私の場合、彼らは最初のステップに小さいステージを用意してくれて、「Sabai Sabai Radio」としてアジア・太平洋のインディペンデントなラジオプラットフォームで何が起きているかに強い関心を持ったんです。もちろんただの限定的なラジオではなく、コレクティヴとしての側面も重要でした。何年にもわたって、私たちは非常に多くの素晴らしい繋がりを築いてきました。ラジオパートナーのイジーと共にそれぞれのホームタウンで何か懸命に活動している際立った才能を紹介したいと思っています。なので、このステージを任された時からコンセプトは決まっていましたね。クアラルンプールからは「Fono」クルー、シンガポールからは「Revision Music」。ソウルには、「Soul Commuity Radio」があります。もちろんTsubaki fmも忘れてはいけませんね。これらはすべて、DJや音楽のために素晴らしいことをしている小さなコレクティヴですし、それこそが非常に重要なコンセプトだと思います。

-実際にフェスティバルに訪れたときに、様々なアジアの人たちから強いコミュニティーがあることを強く感じました。Tsubaki fmにとってもプロジェクトに参加し、繋がることは本当に素晴らしい機会でした。

そうですね、もしかしたら日本とアジア・太平洋のコミュニティーはまだ良く繋がっていないかもしれないですね。ですが、Tsubaki fmは実際の活動やコネクションに本当に価値があるように感じます。実は、バンコクでは素晴らしいDJを含んだ日本の大きな現地コミュニティーが既に存在しているんです。それは日本とアジアとの関係値がより強くなっていくことで、とても興味深い結果をもたらしたんだと思います。アムステルダムとも共通して言えるんですが、日本は既にシーンが強烈で、全てが揃っている為、他の国で何が起こっているかを気にする必要は殆どありません。常に海外からDJが訪れ、素晴らしいレコードショップがあります。それは東京であり、日本であり、実際には東京だけでなく、京都や札幌にも素晴らしいシーンがありますよね。
バンコク、クアラルンプール、ソウルの興味深い点は、私たちのシーンが小さいので、お互いを見つめ合い、何より移動も簡単だということです。クアラルンプールからバンコクまで飛行機で約1時間です。東京から京都へ行くのと同じですよね?なので、コネクションは非常に簡単にできます。レコードコレクターとしての私にとって、更に素晴らしいことは、全てのシーンに独自の歴史があることです。
ですから、間違いなく日本にとってもシーンの融合があり、皆が興味を持ち始めることは本当に面白い事だと思いますね。そしてこのインタビューとは別で、私達が共に何かを始めることができると考えてます。初めから最高レベルである必要もないですし、有名クラブでパーティーをするなどといった事だけではないですから。私は本当に「草の根」的な感覚、点と点を繋ぎ、コミュニティーとしての感覚を生み出す事だと信じています。正直なところ、私は25年間DJをしていますが、私が体感する最も興味深いセットは常に有名なアーティストのものであるとは限りません。あまり有名ではないDJに感動したり、狂ったように踊ったりすることだってあります。それはアジアを旅して彼らとDJをして気づいたことで、皆何か伝えたいことがある。例えば、何年も世界をツアーをしているアメリカのDJよりも、クアラルンプールのDJの方がもっと面白い事だってあるわけです。我々はアートと音楽に基づいた芸術性を見なければなりません。性別、セクシュアリティ、人種、外見、社会的地位に基づいてアーティストを分類するメディアの考え方に従わないことを心から望んでいます。私たちのアイデンティティは非常に重要ですが、アーティストとして定義するために使用されるべきではなく、やはり音楽が第一であることを信じています。メディアはしばしばアーティストのアイデンティティを崇拝しすぎて、実際の才能や彼らが表現する芸術を認識しないこともあります。グループとして、そして文化としてこれを乗り越えて、平等に基づく正しい方法で私たちの文化を擁護できることを願っています。これこそがまさにハウスミュージックが築かれた柱でもあるからです。

-最後にミックスのコンセプトについて教えてもらえますか?

このミックスは私の音楽的な旅を表現しています。まずは私の父から得た幼少期の影響から 「Song for My Father」(ホレス・シルバーのオリジナル)は、父がよくピアノで弾いていた曲の1つ。それから「North Sea Jazz Festival」の思い出。アフターパーティーでロイ・ハーグローヴがメイシー・グレイやその他のミュージシャンとスリーピースバンドを組んでいたのを見れたのは本当に特別な経験でした。これらはジャズマタズやナイトメアズ・オン・ワックスのような後から影響を受けたヒップホップに繋がっていき、曲の展開が徐々にハウスミュージックへと移っていきます。マスターズ・アット・ワークが「Nuyorican Soul」をリリースした時はオランダ人の多くにとってもきな変化がありましたね。


年齢やキャリアを重ねるほど、音楽の関係性が見えてきます。最初はすべて
が無関係で、これらのジャンルはすべて別の惑星のように感じますよね。でも、ある時、すべてがとても繋がっていることに気がつきます。それが私にとって非常に興味深く、価値のあるものなんです。そしてもちろん、私に大きな影響を与えてくれたラリー・ハードにこのミックスを捧げなければいけません。ラリー・ハードは、意図してハウスミュージックを作ろうとしなくとも、ハウスミュージックを作り上げてしまうような存在。その自然な雰囲気こそが私が最も好きな感覚なんです。なのでDJとして、ミュージシャンとしての私の使命は、そのフィーリングを取り戻すこと。特定のジャンルの話をすることは自分にとって関係のないことで、正に感覚のことなんです。そしてそれは必ずしも大きいサウンドでなくてもいい。最近の関心事は正にそのことで、これらの繋がりを作っていくことなんです。結局のところ、DJは大変な作業。私には語るべきストーリーがある、あなたにも語るべきストーリーがある。私たちは自分の物語を語るために戦わなければならない。あなたは決して私の物語を語ることはできない。ですから、人々があなたの音楽を聴いてくれるような雰囲気をどのように作るか、ということです。




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