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【覚書】 才能が好き! 伝える仕事がしたい! …2022年の決意。

始まりは、2020年の年末

コロナ渦で海外旅行に行けず、実家への帰省も断念した2020年の年末。本州の北の果て「竜飛岬」の寒風吹き荒ぶ露天風呂に浸かりながら「会社を辞めよう」と思った。迷いも気負いもなかった。熱いお湯に浸かって「はあぁ〜」と出る吐息のように「会社を辞めよう」と思った。

竜飛岬の風は凄まじい。一瞬で目の前が真っ白になったかと思えば、突然パッと視界が開ける。

それからの一年間

もともとフルリモートで在宅勤務の日々を過ごしていたので、会社を辞めても生活に大きな変化はなかった。向き合うPCの画面に映るものが、仕事ではなくお笑い芸人の動画になっただけのこと。
迷いや後悔が1ミリもない代わりに、気負いもやはりなかった。気負いどころかやりたいことがなかった。元々30歳で燃え尽きて、そこからやりたいことなんて何もなく、ずっと3割の力で仕事をしてきた。会社を辞めたからといって急に気力がみなぎってくるわけもなく、「会社を辞めた自分」を満喫していた。それはそれでよかった。

そんな中、ありがたいことに仕事のオファーがいくつかあった。自分はいくら稼げるのかの興味もあり、求められるがままに仕事をしてきた。秋ぐらいからは仕事に忙殺されるようになり、生意気にも「断る」ことを覚えた。

一番忙しかったのは宮崎でワーケーションをしていた頃。チキン南蛮は美味しかったが、宮崎の太陽を尻目に暗い家の中でずっと仕事をしていた。この頃から優先順位がおかしいぞと思い始めた。

そして迎えた2021年の年末

世の中が「仕事納めだ」「カウントダウンだ」と盛り上がる中で、気づけば、仕事がちっとも楽しくなかった。打ち合わせがある日は憂鬱で、2時間も3時間も延長される話し合いに嫌気がさした。そこではたと気がついた。会社にいると組織の中で求められる役割を自発的に演じてしまう、それが嫌だった。だから会社を辞めたのに、結局また関わる人々の中で求められる役割を演じている。私は一体何がしたいんだ…?

「通勤」がなくなってから私の考え事タイムはもっぱら銭湯か散歩。東京は雪が降らないから散歩しやすい。

何がしたい?何がしたい?と自分の中に探しても、やっぱりそこには何もない。
専門性もなく、主張すべきオピニオンもない。私には何もない。でも…

「伝えたい」

ふと心に強く浮かんだのは「伝えたい」という思いだった。

天職だと感じていた雑誌編集者時代、よく「他人のふんどしで相撲を取るのが編集者だ」と思っていた。私には何もないけど、すごい人やおもしろいものはいっぱいあって、感化されやすい私はすぐに、その「すごさ」の虜になる。
「高崎は本当に才能が好きだよね」と先輩たちからよくからかわれた。そう、私は才能が好きだ。才能ある人の活躍する場を作り、世に出ていく足がかりを作ることが好きだった。

会社の中で出世しようともがき、編集や制作を手放した。そういえば手放し始めたあの頃は「何が好き?何が得意?」と聞かれると「才能が好き。他人のふんどしで相撲を取るのが得意。」と答えていた。生きる世界の違う会社の上司たちは大きく「?」を浮かべた顔で曖昧に笑った。うまく説明できない自分がもどかしくて、いつの頃からか「新しい事業を作るのが好き。荒れ地のような仕事をきれいに整備して秩序立てるのが得意。」と、求められる回答をするようになった。自然、そういう仕事が増えていき、そういう仕事で認められるようになり、自分の本当に好きなこと・得意なことが霧に包まれて見えなくなっていった。

2022年の決意

「伝えたい」「才能が好き」「他人のふんどしで相撲を取るのが得意」ということまでは思い出したが、いかんせん、フリーの身だ。なんなら編集職からだいぶ離れた生活をしてきた。以前のようにどこかの編集部に所属して、ろくに家に帰らずに仕事に生きる道はもう選べないし、向こうも欲してはくれないだろう。どうしよう。何ができるだろう。どんな方法があるだろう。

2年ぶりに帰省した実家にて。雪かきでは役に立たず、齢40にして作った雪だるま。何作ってんだか…とボヤいたら、父に「それしかできないんだからしょうがないでしょ」(というのをものすごい秋田弁で)言われた。そうだ、これしかできないんだからしようがない。何かが吹っ切れた瞬間だった。

何も解決していないし、なんの突破口も見出せていないが、不思議と心は爽やかだ。思えば遠回りをしたものだ。一度手放した編集をもう一回やりたいなんて。40歳になって、フリーランスになって、それでもまた編集がやりたいなんて。

ふふふ!と一人でほくそ笑みながら、これからの1年を思う。私は編集がしたい。才能に出会いたい。人に伝えたい。

やり方は手探りだけど、この思いはもう忘れない。