高崎 薫
書き散らかしです。
自分用の備忘録です。
経歴と制作実績のポートフォリオです。
新卒で就職してから転職・出戻り・転職・フリーランスへという、試行錯誤の私のキャリアをまとめてみました。 制作実績はこちら 出身と高校時代 秋田県の最北端、白神山地と日本海の合間に位置する小さな町の出身です。 高校では「閉塞感が漂う秋田を出ること」だけを目標に、脇目も振らずに猛勉強。勉強しすぎて青春がないぐらい……。その甲斐あって東北大学に合格します。 大学時代 いざ大学に入ってみると、よくある話ですが、自分の中に「この研究をしたい」がなくて呆然……。 せっかく暇なの
夕方、近所の友達が年長の娘さんを連れてやってきた。 「薫ちゃん、これどう教えたらいいのか。私にはもうわからなすぎて……」 その手には小学1年生の算数ドリル。 教育系の企画・制作に携わる私は時々そんな相談を受ける。 実はこういう時、内心とてもヒヤヒヤする。 未就学児の場合、その子が何でつまずいているのかは、大抵の場合、横で見ている保護者のほうがよくわかっている。そのつまずきを薫ちゃんは瞬時に理解し、子どもが納得できる説明をして、魔法のように解決してくれるのではないか。そんな期
4月26日(金) 11時 やけどをした。 水筒にドリッパーで直接コーヒーを淹れていて、ふとした拍子にドリッパーを倒して熱湯が腕にかかってしまった。コーヒーの粉と熱湯にまみれて、大惨事。 その瞬間は熱いのか痛いのかもわからず、とりあえず反射的に水道水をあてる。トイレから出てきた夫が「どうしたの…うわあ!」とまずは調理台から床に広がる湿ったコーヒーの粉に驚く。(掃除大変じゃん…ぼくはやらないよ…)という顔で私を見て、「まさかやけどした!?」と気づく。当の私はあいまいに「やけど
去年の冬「世界遺産」をテーマにある教材を作った。TBSの人気番組の映像を贅沢に使い「世界遺産」の理念や意味、課題を考えさせる内容だ。仕上げに「地元に世界遺産の候補がないか、探してみよう」というワークを入れた。例として私の地元の町を想定し、青森と秋田の海沿いを走る単線「五能線」を取り上げた。 「五能線」は「日本一美しい単線」と言われたこともあるくらい、鉄道ファンには人気の路線だ。荒ぶる日本海と深い山々の間をかろうじて走る小さな列車。地元の人はみな車で移動するので乗っているのは
2015年ごろから「家」というものについて考えることが増えた。 きっかけは、父方の伯母Yの死。 父にはお姉さんが3人いて、東京のとある会社の社長夫人だった伯母Yが病気のため亡くなった。 伯母Yの旦那さんは既に亡く、お子さんもいなかった。 その資産と所有していたマンションが、伯母Yと一緒に暮らしていたもう一人の伯母、Kに渡った。 しかし伯母Kは認知症を患っていた。 伯母Kにも配偶者や子どもがおらず、認知症の進行とともに一人暮らしが困難になった。 父は東京を訪れ、伯母Kを地元・秋
弟が家を建てるらしい。 我々の実家は秋田県の辺境の地にある。 父が十数年前に新築した大きな家は、母の猛烈な掃除のおかげか今も新築当時のまま、美しい姿を保っている。 当然、親は県内で公務員となった息子が継ぐものと思っていたのだろう。 弟が家を建てるのは実家から車で2時間ほどの、県中央部。弟の妻の実家に程近い場所である。 我々の実家は辺境の地にあるので、いくら県内に職を得たと言っても容易に通勤できる場所ではない。弟の子どもの教育を考えても、県中央部に家を建てる判断は間違って
会社員時代、経営している塾の手伝いに行ったことがある。 夕方の教室で、3人くらいの小学生の勉強を見ていた。 そのうちの一人、1年生だったか2年生だったか、小さな女の子がいた。 国語の問題集を開いて詩の問題を解こうとするんだけど、どうしてもうとうとしてしまう。 「いつもはこんなんじゃないんだよ、今日はどうしても疲れちゃってるの」 「ほんとはもっとちゃんとしてるんだよ」 臨時で現れた私に必死にそう訴える。 きっとすごく頑張り屋さんなんだろう。 ちゃんとできる自分の姿を見せた
始まりは、2020年の年末コロナ渦で海外旅行に行けず、実家への帰省も断念した2020年の年末。本州の北の果て「竜飛岬」の寒風吹き荒ぶ露天風呂に浸かりながら「会社を辞めよう」と思った。迷いも気負いもなかった。熱いお湯に浸かって「はあぁ〜」と出る吐息のように「会社を辞めよう」と思った。 それからの一年間もともとフルリモートで在宅勤務の日々を過ごしていたので、会社を辞めても生活に大きな変化はなかった。向き合うPCの画面に映るものが、仕事ではなくお笑い芸人の動画になっただけのこと。
これまでの企画・編集・制作・執筆の実績について、簡単にまとめてみました。 キャリア遍歴はこちら 雑誌theater culture magazine T. 豪華な写真とインタビューで構成された映画雑誌。創刊から企画・編集として携わりました。 シネコンウォーカー フリーマガジンが盛り上がった時代に。素晴らしいスキームだな!と思いながら制作。雑誌のマネタイズの勉強にもなりました。 高校生の初めての雑誌作り 「卒業特集」 雑誌を作ってみたい!というN高・S高の生徒たちと
転職して、とあるWebサイトに署名原稿を書いた。 公開された記事を見て、「ああ、わたしは名前を取り戻したんだな」と思った。 ーーー 社会に出て4、5年目の頃 私は大手教育出版社で生意気な若手として活躍していた。 自分で言うのもなんだけれど、期待されていた。 有能感に浸っていた。 当時、私は上司に直訴して、作った媒体にクレジットを入れることを勝ち取った。 企画・編集=わたし。 イラスト、デザイン、校正、印刷、Special thanks… 関わったすべての人の名前を入れて