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高橋昌一郎先生『東大生の論理』感想


1.論理学=数学・哲学の道具

これまで自分は論理学という学問に対し、数学の証明問題に似たものだと漠然と想像していた。そのため本書『東大生の論理』を読み、第1回講義の章で、著者の高橋先生が東大の論理学の授業で「男女関係の問題」を提示し、学生達が議論し始めたあたりで臨場感に一気に引き込まれ、「あれ?ひょっとして論理学は数学より、哲学に近いのでは?」と驚きを感じた。

辞書には「論理学とは、正しい思考過程を経て真の認識に達するために、思考の法則・形式を明らかにする学問」(デジタル大辞泉)とある。数学や哲学を紐解く道具として、論理学が必要不可欠であることも、後に調べて分かった。確かに、論理学を学ぶことで思考の手順を身に着ければ、学問のみならず生活の全てに応用が効くので実用的であろう。
そして疑問が生じた。論理学とは果たして、文系科目と理系科目、どちらに近いのだろうか。

2.東大教養学部の意義
ここで、高橋先生の論理学の授業を受講している東大生達について、改めて捉え直すことにする。
他大学と異なり、東大は教養学部を設けている。東大の入試は、文系と理系で分けて行われる。だが入学者は全員、文・理に関係なく2年間の教養学部に入るので、専門的な学問を学び始めるのは3年生になってからとなる。
なぜ東大だけが教養学部を設けているのか。それは、文系・理系の壁を取り払い、両方の学問を融合・活用する能力を育てる-いわゆるリベラルアーツ教育こそが、東大の目指す所だからだろう。
将来の政治界やビジネス界で、日本を背負って立つ人材を育てるためには「短期間で習得できて、社会に出てすぐに役立つ即戦力的なスキル(資格や試験のスコアなど)」でなく、長期間でじっくりと大きな課題に取り組み人生を生き抜くための、人間力(数値化できないもの)が必要なのだろう。

論理学は文系科目か、理系科目か?―その問いに対して、私なりに出した答えは「どちらにも応用が効き、文系と理系の両方を融合させる素晴らしき道具」というものだ。

3.大学で学問をする意味

ここで思い出した個人的なエピソードがある。20代後半の頃、高校時代の友人同士である私(英文科卒)、友人A(経済学部卒)、友人B(法学部卒)の3人は、自分たちの受けた大学教育について話していた。

私と友人Aの意見は
●大学で学んだことは、今の仕事にダイレクトに役に立っているとは言えない。むしろ役に立っているのは部活動やアルバイト/資格取得のため通った予備校の方だ。
●大学の法学部で学んだ法律の知識を、実際に仕事で使っているBは、羨ましい。
というものだった。

だが、友人Bは別の角度からこのように述べた。
「それは違う。例えば人生で大きな壁にぶつかったとするでしょう。失恋したり、災害にあったり、家族の病気や死を迎えたり。そういう時、一体何が、私達を立ち上がらせる原動力になるの?決して、仕事で役に立つスキルや資格じゃないでしょう。
それは、学問とじっくり孤独に向き合う中で、自分の中に芽生えた自尊心。あるいは、クラスメートと一緒に切磋琢磨して研究しながら培った根性かもしれない。あるいは、文学を読んで琴線に触れた、たった一つの美しい言葉や、何気ないひとときに先生がくれた助言の言葉なども、含まれるかもしれない。
リベラルアーツという曖昧なものは、一見何の役に立つか不明だけど、じわじわと人生で生きてくるのよ」

友人Bが20代後半の若さでこの見解を述べたことは、今考えると驚きに値するが、確かにリベラルアーツ(日本語で「教養」と訳される)の一部である論理学の基礎を学んでいれば、人生で絶体絶命のピンチに陥った時も、絶望せずパニックにならず、手順を踏んで落ち着いて思考し、解決策を導くことができるだろう。
「本当に役に立っているの?」と疑問を感じていた自分の大学時代の教育内容を、反省しながら見直すことにした。

4.論理学の歴史
古代ギリシャには「自由人にふさわしい教養」の概念があり、それが反映された中世ヨーロッパの大学には、自由七科と呼ばれる7科(文法・修辞学・論理学の3学と、算術・幾何・天文学・音楽の4科)があったという。論理学がソクラテスの時代から受け継がれてきた歴史があるのに対し、中世の自由七科に「科学」は含まれていない。科学は新しい学問なのだ。(※天文学のみ含まれているが、物理・化学・生物学の名前はない。)
古代ギリシャでは文系・理系の概念は存在せず、自由七科には文系・理系学問が混在していた。塾講師の自分は日頃から「この生徒は文系科目が得意で、理系科目が弱い」などと言いがちだが、このような文系・理系という分類法は時に思考の幅を狭め、世界の見方に限界を作るのでは?と危機感を覚えた。

第一回講義の「XとJとKの男女関係の問題」で、東大の学生達の発想の自由さに驚いた。枠にとらわれず、与えられた選択肢に縛られず、柔軟な発想で最善の解決策を導き出そうと探究する姿に、彼らが東大生たる所以を見た。賢くなるとは、単なる知識の蓄積を指すのでなく、知識をフル活用し常識にとらわれない発想をする「自由さ」を意味するのだろう。教養を意味するリベラルアーツの “liberal”の真の意味が初めて分かり、学び続けることで、より自由に生きられる限りない可能性を感じた。

5 愛を科学で説明できるか?

本書を読んで改めて気づいたのは「この世には数字で表せるものと、表せないものがある」という事実である。
P.158の「最近まで僕は、科学的に考えれば全てが説明できると考えていたが、それでは失敗する。愛は科学で説明できない」という学生のコメントには考えさせられた。確かにこの世には、科学で説明できるものと、全く説明できないもの(人の感情など)が存在する。例えば

●1人っ子と3人兄弟の長女。親からもらっている愛の量はどちらが多いか。数値化せよ。
●あなたにとって人生で最も大切なものを5つ挙げ、その重要度をパーセンテージで数値化し、円グラフで表せ。

…という問題があったとする。2つとも過去に自分が実際に取り組んで挫折したものだ。この問題に取り組んだからこそ、数学が俄然面白くなった。この世に存在する全ての「数値化できて、数式により必ず一つの解が導き出されるもの」が、素晴らしい存在に思えてきたからだ。

私の職場(学習塾)の偉人カルタにはアインシュタインの札があり、
「宗教なくして科学は不具であり,科学なくして宗教は盲目である」
と英語で書かれている。

この名言の意味を小学生に上手く説明できるほど、自分の教師としての人間力はまだ足りていない。そんな私に、この課題図書が「論理学」に触れるきっかけを与えてくれた。
「数字で表せる理数系科目も、数字で表せない文系科目も、両方大事で、両方を融合・フル活用できるのが本当の知恵」だと、自分なりに噛み砕いて生徒達に説明しようと決意できたのは、この本のお陰である。著者の高橋昌一郎先生と、本書を薦めてくれた恩師に感謝している。


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