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日本絵画歳時記 桜(3)

 こんにちは。椿です。
 さて、桜といえば花見でしょう。昨年までと打って変わり、今年は花見にでかけた、公園で宴会をしたという人も多いかと思います。考えてみれば、桜を見ることを単に「花見」と呼ぶのも、不思議といえば不思議です。日本人がそれだけ桜の花を愛しているということでしょう。というわけで、今回はお花見をテーマにした絵について見ていきたいと思います。

 前回もお話ししましたが、春の花見、秋の紅葉狩りは昔の人々にとって大きな楽しみでした。過ごしやすく外出にも適した季節に、美しい自然の中で、軽く飲食しながらゆっくりと過ごす。いまとくらべてレジャーの少なかった時代ですから、そうした、その季節ならではの行楽は、大変楽しく、待ち遠しいものだったのだろうと思われます。

「花下群舞図」右隻 神戸市立博物館
「花下群舞図」左隻 神戸市立博物館

 本図は桃山時代に作られた一双屏風です。右隻は祇園社、左隻は上賀茂社の社頭風景が表され、咲き誇る桜の下、人々が円になって踊る様子を描いています。円の中心には大黒や恵比寿、南蛮人などの仮装をした人物の姿も見え、周りの踊り手は揃いの着物に身を包み、金色に塗られた扇を手に踊っています。

 このように着飾って集団で踊ることを風流(ふりゅう)踊りといい、中世以来流行を見た芸能の一つです。「風流」とは、様々な意匠をもって飾り立てることを指します。伝統的な祭礼行列に時々、作り物をのせた大きな傘が見られますが、あれは「風流傘」といいます。お祭りなど特別な機会に、それを盛り上げるべく趣向を凝らすわけです。
 本図の場合は特にお祭りというわけではなく、皆が集まる花見だから、ということでしょうが、春を待ちわび、桜を楽しみにしていた人たちにとって、お花見はお祭りにも似たイベントだったということでしょう。

 周囲を見ると、毛氈と呼ばれる敷物を敷いて、お酒を飲んだり、双六をしたりする人々がいます。その場で魚や鶏をさばく料理人の姿も見えます。本図では桜よりも、こうした人々の遊び楽しむ姿が主役と言えるでしょう。もちろん、桜あっての話ですし、画中に美しく咲き誇る桜も描かれますが、花鳥画とは異なり、その役割は一歩引いたものとなっています。ちなみに、こうした人々の遊ぶ姿や暮らしぶりを主題とする絵画を風俗画と呼びます。

岩佐又兵衛「洛中洛外図」右隻 東京国立博物館
岩佐又兵衛「洛中洛外図」左隻 東京国立博物館

 次にあげるのは、風俗画の中でも、中世末から近世にかけて大変流行した、洛中洛外図という作品の一つです。京都の市中と郊外を一覧のもとに描き、伝統的な名所絵の世界を下敷きに、そこで生きる人々の姿を文字通り活写した絵になっています。
 さて、屏風は数枚のパネルを紙製のちょうつがいでつないだものですが、そのパネルは向かって右から第1扇、第2扇というように、「扇」を単位に数えます。

 これは右隻第5扇から6扇にかけて、鴨川にかかる五条大橋の上を渡る一団です。傘や扇を手にみな踊っていますが、よく見ると何人かが桜の枝を手にしています。おそらくは花見に行った帰り、浮かれ楽しんだ勢いで踊りだしたということでしょう。どこで花見を、と彼らが来た道を真っ直ぐたどっていくと、方広寺の脇を通って、東山に突き当たります。

 山の中腹に、桜に囲まれた建物が見えます。ここはあの豊臣秀吉を祀った神社、豊国社です。慶長3年(1598)8月18日、秀吉は波乱に満ちた生涯を終えますが、様々な事情からその死はしばらく秘密にされました。翌年の慶長4年4月、遺骸は東山の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、朝廷から「豊国大明神」の神号を賜ります。それをうけて建立されたのが豊国社です。境内は桜の名所として、春になると都人で賑わったそうです。本図でも門前から境内にかけて参詣者の姿が見えます。
 先ほどの五条橋で踊る集団はおそらくこの近辺で花見をし、帰宅、あるいは市中へ繰り出そうという人達なのでしょう。もちろんいまでは桜の枝を折るのはNG行為ですが、是非はともかく、当時はしばしば行われていたようです。神社の桜を折るなんて神罰があたったりしないか、余計な心配をしてしまいますが、なにはともあれ楽しそうです。

 さて、その秀吉ですが、派手なことが大好きで、しばしば大きなイベントを仕掛けました。なかでも、桜の季節に行われた二つの花見は有名です。

「豊公吉野花見図」右隻 細見美術館
「豊公吉野花見図」左隻 細見美術館

 これは「豊公吉野花見図」という屏風絵です。文禄3年(1594)春、秀吉は配下の武将や公家、茶人や連歌師たちを伴い、総勢5000人で奈良の吉野へ出掛けます。吉水院に本陣を置き、五日間にわたり茶会、歌会などを催しつつ、花見を行うという盛大な企画でした。しかしはじめの三日間は雨にたたられたため、「雨がやまねば山に火をかける」と秀吉は怒り、あわてて僧たちが祈祷を行ったといいます。
 本図は雨がやんで後、一行が列をなして花見を楽しむ様子を描きます。神社の鳥居をいままさにくぐろうとする一団の中、豪華な輿に座っているのが秀吉です。この輿はパランキーンといって、外国から献上された特別な輿でした。

 吉野は古来、桜の名所として名を馳せてきました。その由来は、修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)が、吉野の金峯山で修行中に蔵王権現(ざおうごんげん)という仏を感得(感じて会得すること)し、その姿をヤマザクラの木に刻み、祀ったことがきっかけとされています。後世の修行者が、蔵王権現や役行者に対する信仰の証として、吉野の山に桜を献じるべく、植えていったというのです。
 秀吉が輿に乗って向かう先にあるのが蔵王堂です。秀吉はこの花見に際して、新曲の「吉野詣」という能を自ら演じました。吉野を詣でた秀吉を蔵王権現が迎え、天女の舞と共に秀吉の治世を言祝ぐ(ことほぐ)という、秀吉の天下を賛美する内容です。この頃秀吉は関白職を秀次に譲り、太閤として権勢を振るっていました。長い歴史のある吉野に詣でて、自らが主役の能を奉納する。秀吉にとっても、この吉野の花見は記念となるイベントだったでしょう。

 もう一つ、秀吉の最晩年に催されたのが醍醐の花見です。慶長3年(1598)3月15日、秀吉は京都の醍醐寺で花見の宴を開きます。今回の参加者は総勢1300人と、吉野の花見と比べれば少なめですが、一つ特徴がありました。それは秀吉、その息子秀頼、盟友前田利家を除き、招かれて参加した人はすべて女性だったということです。秀吉の正室北政所、秀頼の母淀殿、側室の松の丸殿、三の丸殿、加賀殿に、利家夫人まつ以下、諸大名の女房衆などだけが参加した花見だったのです。
 その理由については色々と推測されますが、基本的には自身の身内を中心としたプライベートな花見ということだったのでしょう。それにしては規模が大きいのですが…。
 規模の話をすれば、花見に先がけて醍醐寺は山内の整備を行い、実に700本の桜を植樹したそうです。たった一日の花見のために、わざわざそれだけの数の桜を植え、花林を仕立て上げたことになります。天下人の図抜けた力を見せつけるお話です。

 本図は、その醍醐の花見を描いた一隻屏風です。第2扇で傘を差し掛けられている老人が秀吉、その隣にいる頭巾姿の女性は北政所と思われます。二人の向かう先には二つほど小屋のような建物が見えますが、中に釜が見えるので茶屋でしょう。そこここで、桜の花がもえるように咲いているのが見て取れます。男性の姿もちらほら見えますが、彼らは花見の奉行や警護の衆でしょう。

 よく見ると秀吉の服装が派手ですね。赤い小袖に牡丹の模様が入った着物を羽織っています。女房衆も華やかな装いですが、この花見では参加した女性陣に2回の衣替えが命じられたそうです。都合3着ということになりますが、一説にはその新調費に数十億円かかったともいわれています。秀吉もさぞ満足だったことでしょう。亡くなる5ヶ月前に行われた、最後の大イベントでした。

 吉野の花見と醍醐の花見、どちらも豊臣秀吉に関わる、実際に行われたお花見です。権力者が催した特別な、イベント的性格の強い花見となりますが、それを絵画に描くということは、行事を記録し、記念する意味合いが強いと言えます。現代であれば写真や動画で残すであろう思い出の記録を、絵画が担ったということでもあります。古い時代の絵画の機能や役割といったことを考える時、こうした作品はとても参考になります。

 さて、最後にもっと庶民的な花見の絵をご紹介しましょう。鳥居清長の「飛鳥山花見」です。

鳥居清長「飛鳥山花見」東京国立博物館(出典:ColBase

 飛鳥山とは現在の東京都北区にある飛鳥山公園のことです。JR王子駅にほど近いこの公園は、いまでも桜の名所として、シーズンになるとたくさんの人で賑わいます。明治6年(1873)に日本で最初に公認された公園の一つですが、もともとこの地を整備し、桜を植えて庶民に開放したのは、かの徳川吉宗でした。
 吉宗は享保の改革を進めたことで有名ですが、飛鳥山もその一環として整備されました。江戸近郊で庶民が安心して花見を楽しめる場所を作るべく、1700本あまりの桜を植樹したそうです。
 本図は三枚続きの錦絵(にしきえ:多色刷り版画)で、広々とした丘陵で桜を愛でる女性たちの姿を、美人画風に描いたものです。清長はすらりとした八頭身の女性像で人気を得た浮世絵師です。本図でも思い思いの着物に身を包んだ女性たちが、それぞれポーズをとるように並んでいます。花見といいながら、あまり桜を見ているようには見えませんが、そこはご愛敬でしょうか。

 以上、花見にまつわる絵画を見てきました。近世に流行した風俗画が多くなりましたが、記録の上では平安の昔からこのような花見は行われ、絵にもなっていたようです。花そのものを描く場合より、ある意味で人々の思い入れの強さを知るような気がします。

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