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ぼくが「社会性」なるものを獲得した裏で、伝えられなくなった自分の意思

先日、三重県にある離島へ旅行した。友達の親戚の家がその島にあり、友達の帰省に付いていった形だ。そこで友達と彼の親戚と3人でご飯を食べながら話しているとき、気づいたことがある。

ぼくは、その場で自然と、自分の意志を抑えて、その場で一番偉い人に気持ち良くなってもらうために、コミュニケーションを取っていた

そこでは、彼の親戚が一番偉かったので、そのおじさんのことを最優先にして会話していた。

当然聞きたいことを聞いたりはするけど、天秤にかけた時、ぼくがどうしたいかよりも、そのおじさんがどうしたら気持ち良くいられるか、の方をずっと大事にしていた。

そのためにぼくは、主張しない。会話を止めない。おじさんの話が流れ続けるように、話したいことを話せるように。

そんなコミュニケーションを、誰に言われるでもなく、明確に意識しているわけでもなく、自然に取っていた。

こういうコミュニケーションのやり方は、大学1年生の時の休学中をきっかけに培ってきたものだと思う。

大学入学直後、18歳のとき。大学を1年休学して、東北で復興支援に関わる教育系NPOで活動していた。2つのNPO団体で半年ずつ活動していたのだが、どちらも地域とどっぷり関わりながらも、主に地域の外からきた「よそもの」によって運営されていた。

ぼくは私立の中高一貫校出身だったので、中高の6年間は狭くて同質性が高いコミュニティの中で生きてきた。また、東京出身で、祖父母も東京に住んでいることもあり、東京から出る機会もほとんどなかった。

だから、休学中に東北で会った人たちは、これまで全く関わったことのない人たちばかりだった。仮設住宅に住む子ども、そのお母さん、漁師のお兄さん、老人ホームにいるおじいちゃんおばあちゃん、その地域で活動してきたおじさん・おばさん。

そして、団体の一員として地域の人と関わるということは、団体の名前を背負っていることでもある。人口が少ない地方では特に、活動に際して色んな人とうまく関係性を築けていることが大切だ。インターンだからとか、若いからとかは、相手からすると関係ない。

だから、例えば地域における重要な方、団体としてお世話になっている方と話すときは、とても気を遣う。

ぼくの特性もあるのかもしれないが、そういうときは、とにかくトラブルや問題を起こさないようにしよう、なんとかその人に気持ち良く帰ってもらおうとする。ぼくの意思は、一旦脇に置いておこうとする。偉い人の気持ちよさが、最優先。

そして地方という場の、よそものが作った団体では、そんな風に「空気が読めること」「偉い人に気を遣えること」「ちゃんと暗黙のルールを守れること」が、ある程度評価される場所でもあった。

だからぼくは、そんなコミュニケーションが取れるよう、がんばった。それが地域で受け入れられるために必要なことだと思っていた。とにかく経験を積み重ねた。周りの真似をした。練習した。

おかげでぼくは、「空気を読む」「場の暗黙の流れを理解してそれを留めないようにする」「偉い人に気持ち良く帰ってもらう」みたいなことを大切にするコミュニケーションが取れるようになった。

それが、ぼくの「社交性」なるものの、重要な一部分になった。

先日、インターン先のcotreeのメンバーとの飲みの席で、ぼくの今後のことを話している時、あるメンバーが

「社交性があるからこそ、今後どこかで都合よく使われてしまわないかが不安」

と話してくれた。

その時は、共感できるような気持ちもありながら、正直反発する気持ちもあって、実際にそれを伝えたと思う。(酔っていたので記憶が曖昧)

「わかるけど、この社交性は、ぼくがこれまで必死で培ってきたものだから、そんな風に言われるのは悔しさもある」

ぼくは今でも「自分以外のみんなが気持ち良く帰れること」を最優先にして会話をしてしまうことがある。

自分の意志よりも、周りの快を大事にしてしまう。

そのせいで、違うなと思ったことや、ぼくが話したいことを、素直に表現できないこともある。それらを一旦抑える癖は、染み付いている。

そしてこれまで、この「社交性」は、ぼくの良さの一つとして扱われてきたし、ぼくもそう思ってきた。

「いろんな人とコミュニケーションが取れるのがすごいよね」
「ほんと人当たり良いよね」
「聞き上手だよね!」

でも、それはあくまで良い面に着目したら、の話だ。

何事にも両面はある。当然、それによって失われているものもある。

失われているのは例えば、ぼくの意思を伝えること、違うと思ったことを違うと言うことだ。ぼくの気持ちであり、ぼくの意思だ。

「あなたがどうしたいかが聞きたい」
「あなたの意思が知りたい」
「それを大事にしてほしい」

そんな風に向き合ってくれる人がいて、はじめて、自分が失っていたもの、押し殺していたものに気づくことができた。

少しずつ、色々な場面で、自分の意思を表現できるようになりたいと思う。

今持っている自分の良さは活かしたいし、大切にしたい。それでも、表現したい。

ぼくも、ぼくが何をしたいかをもっと知りたい、と思う。

でもそれは、きっと険しい道になる。

休学していた1年間必死に身につけてきて、それが良さだと思ってその後も大事にしてきた部分、守ってきた部分を、変えなければならないのだから。

さらに、どう表現したらお互いにとって良いかは、考え続けなければいけない。独りよがりになってしまわないように、でもぼくだけが自分を抑えることがないように。

どちらも幸せになるのは、大変だ。

でも、それでも。

少しずつ、一歩ずつ、前に進めたらいいと思う。ぼくは、前に進みたい。伝えたい。

もしかしたらぼくを知っている人の中には、「十分意思を主張してるでしょ」「いやなときは、ちゃんといやだって言ってるよ」と思う人もいるかもしれない。それもそれで真実なのだと思う。

ここで取り上げたのは、あくまでぼくが認識しているぼくの一部でしかないし、他人から見たら一部ですらなく、無なのかもしれない。

でもぼくにとっては確実に存在していて、無視できない一部なんだ、ということを理解してもらえたら、とても嬉しい。

写真は、岩手県大船渡市の朝焼け。

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