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たった今観た映画に浸れる程度のゆとりくらい、あったっていいじゃないか

16%はあったはずのスマホの充電が、映画が終わって電源を入れてみると6%まで減っていた。
君は電源のオンオフだけで10も電力を消費するのかい。

メールアプリのアイコンに赤丸がついた。1だったのが3、5、10。
全部リクルート。全部転職。
映画なんか観てないで早く転職活動しろよ、と言われているかのよう。

やるよ、やるから。
でも今日くらいいいじゃない。
2時間くらいいいじゃない。


ダメだと言われてる気がして、メールを開く。

「リクルート○○です。書類選考が通りましたのでSPIと診断をネットで受けてください」
「受けてください」
「受けてください、はやく」
「いつ面接できるか連絡して」
「面接のための面談やってあげるから、時間ある日連絡して」
「落ちました、残念だったね」
「落ちました」
「連絡お待ちしてます」
「映画なんか観てないではよやれや」


いいじゃないか、今くらい、今日くらい。
毎日やってる。毎日考えてる。
転職したいのは私、お金が欲しいのも私、望んでいるのは私、あなたたちは手伝ってくれてるだけ。

全部わかってる。


でもね、『蜜蜂と遠雷』がすごくよかったから。
私もピアノを一生懸命弾いていた時代があって、あの頃はピアニストになりたいなんて夢を見ていたけれど、ちょっとしたコンクールで「あんまり競争したくないな、私にはできないな、なれないな」って私の現実を別の場所に移して、今こんな仕事してるわけだけど。
まあそんな時代もあったから、あの彼女たちが生きる世界は想像できるっちゃできるのよね。
や、想像つくだけなんだけど。

別に、今あの世界にいれたら、なんて浸ってるわけじゃない。
ただ、私は映画館でクラシック音楽を聴くことが好きで、中でもピアノの曲を聴くのはすごく好きで、お話も良くて、世界が鳴ってるねぇって泣いただけ。

この痺れを纏ったまま、本を読みたいなぁって思っただけ。


小説を手に取る。
文庫サイズのこのお話をはじめて見たけど、ずいぶんと分厚いんだね。
ああ、読みたいなぁ。
絶対すてきだよ。
今私の中は今聴いたピアノとあの人たちの表情でいっぱいになってるから、文字を鳴らせる。鳴らしたい。


「そんな余裕はあるのか」


落としたメールアプリの文字が聴こえる。
あるでしょ、そのくらい。あるよ。

...ないないない、時間はない。
私の時間はそんなにない。
毎日スケジュールにやさしくない仕事をしてるし、そこに転職も食い込んでくるし。
無いよ。
ないね。


足早に書店の前を離れる

隣の駄菓子屋から聞こえる、子供の駄々をこねる声
学校終わりの女子高生が、誰かを口汚く罵っている
楽器屋で5人の客が自分が弾ける曲の中で一番見栄えのする曲を披露している
全部が混ざって汚く鳴っているけれど、幼稚園生らしき子どもが一生懸命弾いているスケールが一番きれいだ
深刻な顔をしておばさんの手相占いを聴いているお兄さん
きっとそれ当たらないとおもうよ、知らんけど
頭上のスピーカーから降ってくるゴスペル
遠くなるゴスペルがシャカシャカと軽くなってありがたみもへったくれもない
紳士服店のおばさん2人は誰かの悪口を言ってる
こんな人たちの言葉で褒められた服は大して良いものじゃないんだろうな
またあのゴスペルが別の天井から落ちてくるけど、もういいよ大丈夫じゅうぶんだよ
走り回る子供を止める父親の大声
井戸端会議の笑い声
小さいお顔におめかししたJKたちの尖った声
THE BODY SHOPからただよう強烈な香り
いつもは好きだけど今日は殺したくなる
たった1人の客に3人がかりで「どうぞごゆっくりご覧ください」と追い詰める店員の粘つく声


寒い、身体の奥の奥が冷えていく


建物の外に出る。
地元の中学生たちの叫び声を聞きながら喫煙所を通り過ぎる。

この人たちの耳は今、おそらくなんの音も拾っていない。
きっと煙が届くだけ。


映画館から離れるとまた、「明日も良く働き、良く転職活動しろよ」とメールを模した声がきこえる。

うるさい。うるさいうるさい。
うるさいうるさいうるさいうるさい!!!


頼むから今日くらい黙ってよ、お願いだよ。
昨日も一昨日もその前も、私ちゃんと仕事のことも転職のことも考えてるよ。
それにわかってるよ、転職を望んでるのは自分だってことも。

全部ちゃんとわかってるよ、大人だもん。


でもさ、いい映画を観た時くらい、それからあと3日くらい、映画の中にいてもいいじゃんか。
映画の音だけ鳴らしててもいいじゃんか。

だめ?

ほら、もう映画の音消えちゃったよ。
さっきまでいっぱいだった分、空っぽになっちゃったよ。

もう全部無いよ。


大人ってこういうとこあるよね。
これが大人なんだろうね。
でもさあ、私は違う大人になりたいよ。
みんなそうだとしても、私はこれは嫌だよ。


いい映画を観たときくらい、その時間を生きてもいいじゃん。
あの分厚い本を読む時間くらい、あってもいいじゃん。

そんなに急いで現実に引き戻さなくたっていいじゃん。


待ってよ。


たのしく生きます