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七十話「顔をかいた話」

「この話、正直あんまり話したくないんですよ。……聞かれたくないもんで……」

初老の男性は、仏間まであげてくれた柔和な態度とは違い、険しい顔で辺りの襖を一つ一つ丁寧に閉め、人差し指ですーっと空を切るように周りを注意深く窺いながらそう呟いた。


そして男性はメモ帳になにかを書き、机のうえに二重線で強調されたその『注意書き』なるものを置くと、無言のままそれを指差した。

私が『注意書き』を読んだことを確認すると、初老の男性は一言一句に気を使いながら、ゆっくりと話し始めた。

以下は、その内容を読みやすい形に書き換えたものである。



話をしてくれた男性、Kさんがまだ幼かった頃。
両親の畑仕事を手伝うため自宅から飛び出すと、お隣さんのまっさらな田んぼが広がっていた。
すでに田起こしを済ませていたようで、近くには新鮮な土の香りが広がっていた。

その傍ら、土手の部分に妙なものが突き刺さっていた。
誰がどこから持ってきたのか、それは一枚の古めかしい木の板だった。表面に汚い木目となんらかの凹凸がみられたが、それ以外にこれといった特徴はなかった。ただ、なぜだかそれが気になったKさんは、そっと近づいくとその表面を何度か指でなぞった。

その後、畑仕事を手伝って帰った頃には、例の木板は影もかたちもなかった。

一連の流れはKさんの気まぐれであったが、思えばそれが全てのはじまりだったという。



それから、Kさんは妙なモノがみえるようになった。

最初は、近所の友達の家で飼っている犬が子どもを産んだときのこと。
その友達は、Kさんら一同を自宅に誘うと、飼い犬の様子を見せてくれた。
ダンボール箱のなかで母犬の乳を求め、奪い合う子犬たち。その姿のなんと愛くるしいことか。
誰もが「いいなー」「かわいいなー」と口にするなか、一匹だけ違うヤツがいた。
ソレはダンボールの隅っこに顔を突っ込んで踞っている子犬で、元気がないのかピクリとも動かなかった。

その子犬はKさんの視線に気づいたのか、突如くるんと寝返りをうった。
露になった顔の部分は、目も、鼻も、口も、なにもなかった。

「えっ」

……と、Kさんが口にした次の瞬間には、もうダンボールの隅っこにいたソレの姿は影もかたちもなくなっていた。
一瞬のことだったので、記憶が曖昧だというが、ソレの顔の部分には乱雑に散りばめられた皺というか、微かな凹凸のようなものが辛うじてみてとれたそうだ。

そのあと、その家で飼いきれないぶんの子犬を友達らは受け取っていったが、Kさんだけはなんとなく受け取りを拒否した。
そもそも、最初はたしかに子犬が六匹いると聞いていた話が、なぜか五匹しかおらず、ちょうど一人だけ子犬を受け取れない状況になっていた。


他にも、親戚一同が所用であつまったときのこと。暇をもて余した子どもらで鬼ごっこをしていた。
鬼だったKさんが、親戚の子の後ろ姿を捕らえた。そこで「待て!」と大声をあげると、まえにいる人物が振り返ったのだが、Kさんはソレが誰なのか分からなかった。

服装や背丈、髪型はどこかでみた気がするのだが、肝心の顔の部分だけが人のソレではない。ちょうど自分と同い年の子どもが書いたような、えらく稚拙で出鱈目な顔をしていた。

そして気づいたときには、あの子犬もどきと同様、影もかたちもなくなっていたという。


そんな風に、顔が落書きのようなナニカがKさんの周りで現れては、煙のように掻き消えてしまうことが何度かあった。

はじめは親や友達に「こんなのがいた!」と口にしていたKさんだが、ソレをみていたのは自分しかいないものだから、にわかに誰も信じてくれなかった。
それでもしつこく話していくうちに、変なヤツ、頭のおかしいヤツ扱いされそうになって、やがては見たものを口にすることはなくなった。


たとえ、見たとしても次の瞬間には消えてしまう。それだけだとKさんは侮っていた。あのときまでは。



Kさんの大学生時代のこと。
縁あってお付き合いしていた女性がいたのだが、その彼女が急遽された。

このことは大変ショックではあったが、彼女の親族は兄だけで、いかんせん葬儀の人手が足りなかった。
そこで生前の彼女と親しかったことから、葬儀の受付をKさんは任された。

若干放心気味のなか、細々と対応していると、目の前に女性もの喪服姿、そのスカート部分が視界の端に現れた。
そのまますーっと視線をうえにあげる。
顔と顔が合ったときに、Kさんは体が強ばったという。
手の届く距離に、ソレの顔があった。
輪郭の部分には、鉛筆でガリガリと描き込んだ、濃い影のような斜線が何本もくっきりと走っている一方で、顔の部分は描きあげた被写体を、手元でうっかり擦ってしまったかのように歪んでいた。


Kさんはここまで話すと、急に黙ってしまった。
苦しそうな、怒っているような微かなうなり声をあげて、顔を歪ませていた。


彼の語り口は、話が進むほど言葉を選ぶ時間ばかり増えていったのだが、思い返せばそれが最高点に達したのはこのときだった。

長い沈黙の後、ゆっくりと嫌そうに、それがまた遠い昔のことを懸命に思い出すかのように、ようやく口にした。



「思わず、呼びそうになったんですよ。……棺桶のなかで眠っている……“彼女の名前”を」


その瞬間、Kさんは咄嗟に口を抑えて俯いたという。
その姿勢のまま、なにも出来ずにいるしかなかった。
いつもなら、ソレはすぐ消えてしまうはずが、まったく消える様子がない。視界の端に黒い服がずっとみえ続けている。
声をたてることも、喋ることもなく、ただそこにいた。

脂汗が顔中に伝わるなか、「いなくなれ! いなくなれ!」と心のなかで念じて続けているうちにKさんの意識は途絶えた。

後に介抱されたところでは、受付で座っていたKさんが急にうつむくと、周りの声になんの反応もせず、しばらくすると倒れこんだという。
そのときKさんの前には誰もいなかったそうだ。

恋人の急遽による心労からくるものとして、参列者から心配されたが、そんなことはどうでもよかった。

Kさんはこの体験を踏まえて、初めてアイツが末恐ろしくなった。
なぜあんなものが自分のもとに時折やってくるのか?」その理由に気づいてしまったからだという。

思い返せばアレは、子犬に紛れていたときも、鬼ごっこで親戚の姿形を模倣していたのも、全て同じ意図があったのだ。
なぜ、いままで“そのこと”に気づかなかったのか。
その認識が、余計にソレの存在を認めているようで怖気おぞけだった。


この話を整理するには大層な時間がかかった。
というのも、話の核となる『顔が落書きのようなナニカ』に関して、Kさんは「アレ」だの「ソレ」だの指示詞をバラバラに使って、最終的には、主語も指示詞も用いずに話しつづけたためである。


Kさんがどこか話を終わらせたがっている様子をみせたため、私はどうしても最後に尋ねたかったことを口に出した。


「いったい、なにに気づいてしまったのですか?」

日が沈みかけて暗くなってきた部屋のなかでも分かるぐらい、Kさんは黒目を大きくひらくと、卓上の「名前を呼ばないこと」と書かれた『注意書き』を指差して

「ぼくが……描いたから……“これ”を欲しがったんですよ」

「でも、そんなことしたら……」


「血筋に紛れ込んでくるに決まってるでしょ?」


「たぶん」と一言添えたあと、「ここまでにしてください」とでも言わんばかりに力なく手を振ったKさんをみて、私はお礼の言葉はそこそこにして帰路についた。



電車に揺らされながら、Kさんとの今日のやり取りを、話の内容を反芻していたのだが、気がつくと

「この話、……聞かれたくないもんで……」

そう口にした彼が、私と仏間に入って真っ先に閉めた仏壇と

「血筋に紛れ込んでくる」

この二つを何度も照らし合わせては、答えのでない問答をいつまでも繰り返していた。


※冒頭の画像は『お絵かきばりぐっどくん』より。
 『扉の隙間』