見出し画像

三十一話「蜜壺の囁き」

 Wさんの幼少時の記憶。

 

 ある日、祖父と暗い通路を地下へ、地下へと降りていくところからその記憶は始まっていた。

 

 さきを行く祖父の後姿がみえるのだが、その片手に持つ、やけに古臭いランプの明かりが頼りない。弱弱しくてぼんやりとしていて、側面の壁、つなぎ目のない灰色一色の光景だけを照らしていた。その反射光でかろうじて認識できる、ゆらゆらとした老人の背中にWさんは無言でついていく。

 

 あとには暗闇が広がるだけで、厭にじめじめとしていた。

 祖父も無言で歩みを進めるため、Wさんは暗闇に取り残されないよう、一心不乱についていく。なにが目的なのか分からないまま、密室に二人無言でいる空気が、あの厭な湿気と相まって重苦しかった記憶がある。

 暑かったとか、寒かった・・・なにか匂いがした・・・というのは全く覚えていない。その重苦しい空気ばかりが脳裏のどこか隅っこで占領している。ただ、その無言の空間の記憶のなかにも、どこか遠くから蝉の鳴き声を聞いた気がするので、おそらく夏の日のことではないか・・・とWさんは推測している。

 

 

 どれぐらいの時間をかけたのか分からない。

 目の前の暗闇が姿を変えた。そこで祖父は歩みを止めると、足元を照らしていたランプを、今までよりもずいぶん四角くみえる暗闇の方に、ぐーっと突きつける。


 そこには今まで照らし続けた灰色の側壁とは違う、数々の白い輝きが目にはいった。

 ただ、ランプの光が弱いせいか、暗闇のみせるものなのか、それは仄暗くて青白いものにみえたという。

 

 祖父がその行き当たりの部屋の片隅、簡素な机のうえにランプを置くと、今度は棚に並んだ白いものを物色し始める。「これじゃない」「あれか」「いやちがう」などと独り言をあげながら、指さす後ろ姿が、陽炎のように揺らめいていた。

 


 その背中が一つの白いものに飛びつき、「これだ、これだ」と嬉しそうな声をあげながら、くるっと振り返ると、それをWさんの前に差し出した。

 明かりの関係か、目鼻もない真っ黒な顔の祖父が取り出した白いものは、なんの変わり気もない少し大きめの壺だった。やけに白い蓋を祖父が手に取ると、そのまま壺を傾け、中身が露になる。

 

 それは祖父の手のなか、とろとろと蓋のうえに垂れ落ちる蜜だった。無色透明なのだが、ほのかに輝いていた。いや、それ自体がランプの光よりも強く、ほんのりとした光を放ち、祖父の手元を照らしていた。

 

「どうしてだ! 話が違うじゃねえか!」

 

 突然、祖父が怒号をあげ、驚いたWさんは思わず祖父の顔を覗き込む。

 

 

 

 記憶に残っているのはここまでである。

 

 ある夏の盆。親戚らと先祖供養に出かけたWさんは、先祖代々の墓、その地下部分にあたる〝カロート〟に入ったとき、厭にじめじめとした灰色の側壁に囲まれて、ふと、この体験を思い出した。

 

 だから思わず「ここ、お爺ちゃんと一緒に来て以来だなあ・・」とぼやいた。

 

 すると母親が「なに言ってんの。あんたがここに初めて来たのは、その爺ちゃんの葬式のときでしょ」と、耳元で囁いた。

 

 この奇怪な答え合わせのせいかもしれない。

 Wさんは、自分のなかの祖父との思い出がどこまで本当なのか自信がつかなくなった。

 

 だから、Wさんは祖父とカロート(?)に潜った記憶を、なるべく思い出さないようにしている。

 第一、地上からカロートまで、人一人分の深さしかない。そんなところで見つけた数々の〝白い壺〟など、思い当たるものは一つしかない。

 あのとき、中身を見せた、そこにいないはずの祖父。彼が本当に見せたかったのはなんだったか。

 Wさんは一連の奇妙に捩れた記憶が、なんだか禍々しくて思い出さないようにしている。
 しかし、どうしても思い起こしてしまうときがあるそうだ。

 それは、先祖代々の墓の一件以降みてしまう夢をみたとき。

 

 

 気づけば、あの暗いカロートのなか、数々の白い骨壺をまえに立っている。

 そして、置いてあるだけの骨壺が〝合唱〟を始めるのだ。

 

「ちゃぽちゃぽ・・・ちゃぽちゃぽ・・・」

 

 そんな風に、壺の中身が揺れ動く音がいくつも重なり、大きくなって、「ああ、なにか喋っているなあ」と認識したとき、ふと後ろからあの老人の声で囁かれる。

 

 

 そこでWさんは目を覚ます。未だになにを囁かれたかは覚えていない。

 

「夢のなかで囁く祖父、記憶のなかの祖父。そのどちらも全てが曖昧なんですよ」

 

 懐かしい記憶を思い出すたび、あの奇っ怪な夢をみるたび、どっちが本当の祖父なのか分からなくなるから・・・だという。