語り継ぐべきアメリカ南部黒人公民権運動史「クリントン12」
テネシー州クリントンのクリントン高校に対して、テイラー連邦裁判官は1956年秋に「可及的速やかに(with ”all deliberate speed")」人種統合するよう命じました。
1956年8月26日
全白人の学校であったクリントン高校へアフリカ系アメリカ人12人が登校します。この12人は、後に『クリントン12』と称され歴史に名を刻みます。
初日は事件は起こりませんでしたが、2日目には『クリントン12』は、ホワイト・シチズンズ・カウンシル(*)のジョン・カスパーに率いられた大人たちの群衆と同級生からの暴力の脅威に直面します。
8月29日
テイラー裁判官はカスパーに対して差し止め命令を出しました。
しかし、カスパーはその命令を無視し、同日に学校の外で1,500人の群衆に演説しました。
テイラー裁判官はその後、米国保安官にカスパーの逮捕を命じました。
カスパーは法廷侮辱罪で1年間刑務所に服役しますが、アラバマ州バーミンガムから、もう一人のホワイト・シチズンズ・カウンシルのリーダー、アサ・カーターがクリントンに来て抗議の指導を続けました。
9月1日
ホワイト・シチズンズ・カウンシルとKKK団は大規模な暴動を開始します。
車がひっくり返され、窓が割られ、黒人市民が脅迫され、市長の家、地元の新聞社、アンダーソン郡裁判所を爆破すると脅迫しました。
テネシー州知事フランク・クレメントは秩序の回復のため、600人のテネシー州兵と100人のハイウェイパトロールを市に送ります。
暴力は終わったものの、白人分離主義者は市民指導者や高校の教師の芝生に火をつけたり『クリントン12』の家に銃撃を加えるなどの威嚇戦術を続けます。そして、町のアフリカ系アメリカ人地区の家やビジネス建物にはダイナマイトが投げ込まれました。
クリントン高校の校長デイビッド・ブリテンも爆破の脅迫を受け、家族の安全のために家族を町から出すことを余儀なくされました。
1956年12月4日
白人の牧師ポール・ターナーと黒人2人が『クリントン12』を学校に送り届けました後、白人の暴徒によってひどく殴打されたのです。
校長は学校を12月10日まで一時的閉鎖。
学校再開後、『クリントン12』は学校に通い続けます。
1957年5月17日
ブラウン判決から3周年であり、「リトルロック高校事件」が始まる4ヶ月前に『クリントン12』のボビー・ケイン(Bobby Cain)が卒業しました。
彼は裁判所命令によって人種統合された南部の学校を卒業した最初のアフリカ系アメリカ人です。
1958年
ゲイル・アン・エップス( Gail Ann Epps)がクリントン高校を卒業した最初の黒人女性となりました。
1958年10月5日
爆弾によってクリントン高校の大部分が破壊されました。
『クリントン12』の一人、ジョー・アン・アレン・ボイス(Jo Ann Allen Boyce)は、デビー・レヴィ(Debbie Levy)との共著で中学1年生以上を対象とした本『This Promise of Change: One Girl’s Story in the Fight for School Equality』を出版しました。
この本は、自由詩と新聞からの引用、白人至上主義者の抗議看板、牧師の説教、およびその時代の他の一次資料を交えていて、黒人コミュニティの強さと、黒人学生が白人専用であった高校に通うためにどれだけのものを犠牲にし、リスクを冒しているかを学ぶことができます。
公民権運動の始まりである「モンゴメリー・バス・ボイコット」の最中に南部各州で、公教育機関での人種統合に関わる事件が起こっていたのです。
1957年に起こった「リトルロック高校事件」は、その衝撃的な性質とアメリカ全土での広範な報道により、国際的に有名になりました。
アメリカの公民権運動における重要なターニングポイントであり、国際的にその重要性が認識されています。
これに対して『クリントン12』や『マンスフィールド高校事件』は、比較的地域的なニュースとして扱われ、広範なメディアの注目を集めなかったことや、その重要性が十分に認識されていない可能性があります。
そして「リトルロック高校事件」に関する豊富な文献や記録が存在していて、研究や教育のために容易にアクセスできるのですが、『クリントン12』や『マンスフィールド高校事件』は資料が少なく、入手しにくい感は否めません。
アイゼンハワーと公民権
アイゼンハワーは「ブラウン判決」の実効性に関しては、疑問を呈していた人物であったと言われています。そして彼は、国内の反対が根強い公民権問題には本来的には”消極的だった”という史料が多く残っています。
大統領第一期は、「冷戦のプロパガンダ合戦に勝ち抜く」ことが第一義で、公民権をめぐる対立を和らげて表面化させないことに重きを置いていたのでしょう。(南部における公教育機関の人種統合に関わる事件や出来事の関しては「州権論」擁護者として、政府としての介入は行ってこなかった。)
しかしTVの普及とメディアのグローバル化によって「リトルロック高校事件」は世界中に知られることになったことで、国際社会対応上において政策転換が急務となっていったのです。
1957年9月「1957年公民権法」成立
人種分離そのものを禁止することはなく、教養テストや投票税の廃止も盛り込まれない「なんちゃって法律」ですが、アイゼンハワーが拒否しなかった背景は、国内政治状況よりも国際的要因がより強く働いていたはずです。
1958年:国連での「南アフリカのアパルトヘイトを非難する決議」にアメリカは賛成投票。
皮肉にも、第三世界におけるソ連との対抗関係の反映として、公民権への取り組みが進んだ面があることは否めません。
<補足>
「リトルロック高校事件」に関しては次の記事をご参照ください
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