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語り継ぐべきアメリカ南部黒人公民権運動史「マンスフィールド高校事件」

「第2ブラウン判決(Brown II)」から「マッシブ・レジスタンス」


1955年5月31日

アメリカ連邦最高裁判所は、前年に下した「ブラウン判決」 の施行判決版である「第2ブラウン判決(Brown II)」と称される判決を下した。

  • 公立学校における白人・黒人間人種統合を推し進める主たる責任は、各地方自治体公立学区官吏や教育委員会が負うべき

  • 連邦地区裁判所並び に連邦控訴裁判所には、こうした地方教育行政官吏によって策定される人種統合策が「ブラウン判決」の趣旨に沿ったものであるか否かの審理、判断をする責務が課せる

公的な教育機関における人種統合が「可及的速やかにwith ”all deliberate speed")”行われるべき」という法廷見解を出したのだ。

しかし、この判決は、南部白人エスタブリッシュメント層の公立学校における人種統合教育への移行実現を阻止するための抵抗運動「マッシブ・レジスタンス(massive resistance)」に、油を注ぐことになってしまうのです。

「マンスフィールド高校事件」を知っていますか?


テキサス州の郊外小都市”マンスフィールド”(ダラスとフォートワースの都市圏の一部)
この小都市の公立高校で、1956年の白人・黒人間の人種統合(人種共学)への移行計画を巡る事件(「マンスフィールド高校事件」と称される)が起こりました。


1955年7月26日

「全国黒人地位向上協会(以下NAACPと略す)」 マンスフィールド支部はマンスフィールド高校を含む市内公立学校全てにおいて人種統合・共学が実現される旨を要望。

しかし、9月に予定されていた新学年度開始までに、人種統合教育の諸策を策定することは「物理的に困難」との表向き理由で却下されます。

この抵抗運動の先導者は、第37代テキサス州知事 R・アラン・シヴァース(R. Allan Shivers)です。

シヴァース知事は、テキサス州民主党組織の重鎮でありながら「党派ライン」を超える形で、1952年の大統領選挙において共和党候補であるアイゼンハワーへの支持を表明しました。

シヴァース知事とアイゼンハワーは、政治的信条を始めとする共通点が多く、「州権」(各州が元来固有に持つべきとされてきた諸権限)の擁護者だったのです。

1955年7月27日
州政府機関としての「公立学校における人種分離制度に関するテキサス州知事諮問委員会」が組織されました。
この委員会は42名の構成メンバーを有する一大組織で、シヴァース知事が任命した5人の黒人も含まれていました。しかし、この5人は人種分離制度の温存に異論を唱えない人物で、名目的なメンバーにすぎません。


<法廷闘争>

1955年10月7日
NAACPは、黒人高校生を代表する3名の生徒達の保護者が原告となり、連邦地区裁判所への提訴

1955年10月25日
裁判の行方を注視している120名を超える白人市民が、判決内容の如何にかかわらず「マ ンスフィールド高校における人種統合を全面拒否」していく決起集会の開催

1955年11月21日
マンスフィールド公立学区・教育委員会は、人種統合移行へ向けての「誠意ある努めをしている」旨の認定して、原告側の訴えを退けた。

1956年
原告側は、連邦第5控訴裁判所へ控訴

1956年6月28日
連邦第5控訴裁判所は、連邦地区裁判所の判断を覆し差し戻し

1956年8月27日
(1956学年度の入学・科目登録開始日の3日前)
連邦地区裁判所のエステス判事は「人種・肌の色を理由とし、入学資格のある生徒達によるマンスフィールド高校への入学を拒絶してはならない」旨の裁判所命令を下しました。



1956年8月30日

250 名を超える(400名近くとの報道もなされている)半暴徒化したマンスフィールドの白人住民と、事態を聞きつけた近郊のアーリントンからの白人達が、黒人生徒達による入学を阻止するために、マンスフィールド高校を取り囲みます。

翌日の8月31日(金)
入学・ 科目登録の最終日。前日に集まっていた群衆の数を上回る数の白人住民が、マンスフィー ルド高校を取り囲みます。


マンスフィールド高校校庭内の国 旗掲揚ポールと校舎正面玄関上方に吊るされた2体の等身大藁人形


結果として、マンスフィールド高校への入学が認められていたはずの黒人生徒は誰一人として入学登録に訪れる者はいませんでした。


報奨金 ニガーの耳1ダース(12個)に200ドル


1956年9月5日

アイゼンハワー大統領は定例記者会見の場で
「テキサス州で生じた人種統合・共学を巡る事案は、同州の然るべき官権により既に取り扱われており、かつマンスフィールドの治安・秩序が回復されている」
と介入をする考えのないことを明らかにした。

9月6 日
新聞『マンスフィールド・ニュース』は、白人住民の人種統合への徹底抗戦の構えを称賛しました。

シヴァース知事は記者会見を開き、NAACPなどを「金銭的報酬を得るための扇動者達」であると指弾。 「こうした扇動者達がいなければ、騒動は起こらなかったはずだ」語ったのです。

この騒動から9年後の「公民権法」が成立した1965年の8月31日
マンスフィールド高校は、初めて 8名の黒人生徒達を受け入れました。

この事件の教訓は?


当時の南部各州での人種差別は”当たり前”のことで「マッシブ・レジスタンス」は起こるべくして起こったのでしょう。

「マンスフィールド事件」から1年を経た1957年9月

テレビ放送が急速な普及をする中、マスメディアを介して、アーカンソー州都リトルロックの「リトルロック・セントラル高校事件」が全米の注目の的となります。

アメリカ南部黒人公民権運動史において必ず言及をされるこの事件


アーカンソー州知事オーヴァル・E・フォーバス(Orval E. Faubus)が、人種分離・隔離制度の温存を図るための手段として 用いたは『州権論』です。

この『州権論』は「マンスフィールド高校事件」においてシヴァース知事が用いていたものと同じ論理です。

しかし、「マンスフィールド高校事件」では”不介入”であった2期目を迎えたアイゼンハワー大統領の対応は違いました。

「アメリカにとっての”恥ずべき出来事”」

と呼び、多数の合衆国陸軍兵士をリトルロックへ送り込んだのです。


アイゼンハワー大統領の対応の変化には、冷戦下におけるソ連のプロパガンダ対策という観点は大きな要因でしょう。

事件後、9名の黒人生徒は「リトルロック・ナイン(“Little Rock Nine”)」と呼ばれ称賛をされます。


公民権運動に向けた重要なプロセスのひとつである「マンスフィールド高校事件」は、アメリカ南部黒人公民権運動史において極めて重要な出来事と考えますが、ヒーローもヒロインも生み出さず、人種統合を実現できなかった「あるひとつの出来事」としての忘れ去られていくのかもしれません。


歴史に学び正しい事実を”語り継ぐ”


当時、マンスフィールドに居住する計12名の黒人高校生を『マンスフィールド12』と称して語り継がれることはないでしょう。


まったく同じ時期に、テネシー州クリントンでも同様の公教育機関での人種統合の関わる「マッシブ・レジスタンス」が起こっていました。
この出来事は、次号で言及します。


Special Thanks


黒人音楽を通じて知り合った るるゆみこ さん に触発されて音楽だけでなく、アメリカの黒人の歴史を深く調べるようになっていきました。
超感謝です。


「芋ずる式」に様々なことを調べるようになっていき、何が起点が忘れてしまいましたが「星条旗が校庭から消えた日」と題された論文を知りました。


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