見出し画像

おじさん世代向けHipHop入門講座(その②)オーバーグラウンドに浮上

ヒップホップは草の根から生まれ
様々なジャンルの音楽を受容しながら変化・進化して
オーバーグラウンドに浮上していきます

エンジェル現る?


シルヴィア・ロビンソン(Sylvia Robinson)

1950年代にリトル・シルヴィアとしてデビュー。50年代にミッキー&シルヴィアとして、「ラブ・イズ・ストレンジ」をヒットさせた。67年に夫のジョー・ロビンソンとともに、オール・プラチナム・レーベルを創設。70年にはモーメンツの「ラブ・オン・ア・トゥー・ウェイ・ストリート」をヒットさせる。73年にはシルヴィア名義で「ピロー・トーク」をリリースし、ビルボードのポップ・チャートで3位まで上昇する大ヒットとなった。同曲は日本でも小ヒットした。「ピロー・トーク」は後にファーン・キニーらがカバーしている。80年代にはシュガーヒル・レコードを運営。ラップの草分けとなるシュガーヒル・ギャングや、グランドマスター・フラッシュらの作品を発表した

引用:Wikipedia


ヒップホップの商業的な成功をもくろんだ彼女は

「ラップできる子いない?レコード作って儲けない?」


とブロンクスの若者に声をかけます


そして集めた若者で【シュガーヒル・ギャング】を結成させてレコード発売

このレコードが世界で初めてのヒップホップ(ラップ)として大ヒット

The Sugarhill Gang - Rapper's Delight

(Released September 16, 1979)


しかし何度聴いてもCHIC『Good Times』のパクリとしか思えない(笑)


CHIC - Good Times(Released June 4, 1979)


このシルヴィア・ロビンソンとシュガーヒル・ギャングの動きは

ブロンクスのコミュニティからは大ひんしゅく


しかし次のことが表面化しました


✅ ラップのレコードは売れる(金になる)
✅ パクリ? インスパイア? オマージュ?の難しさ


そして感度の高い白人アーティストに影響を与え
白人社会へラップ・ミュージックの存在を知らしめました


メジャー・レーベルと契約した初めてのラッパー


カーティス・ブロウ(Kurtis Blow)


1979年
カーティス・ブロウの最初のシングル『Christmas Rappin’』がラップの曲としてメジャー・レーベルから出た初のシングル
そして最初の輸入盤(マーキュリーのイギリスのロンドン・オフィスと契約していたから)

1980年
『The Breaks』はラップで初めてのゴールドディスク獲得


ヒップホップといえばサンプリングがつきものですが
カーティス・ブロウは『ターンテーブルは無し』
全てバンドによる演奏でバックトラックを制作


この時代のラッパーは 社会的・暴力的なメッセージを発することはなく
みんなでハッピーになることに主眼を置いたパーティ・ミュージックのMCに徹していました



社会的なメッセージ性の強い初めての楽曲


1982年10月
グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブ
『The Messege』をリリース

Grandmaster Flash & The Furious Five - The Message


このメッセージ・ソングを仕掛けたのは?
前述のシルヴィア・ロビンソンです

当初メンバーは難色を示したそうですが これもヒットしてラップの新しい方向性となりました

こうしたメッセージ性の強いスタイルを
『コンシャス・ヒップホップ(Conscious HipHop)』
と言われいます


ジャンルに囚われないヒップホップ


1982年
アフリカ・バンバータが『Planet Rock』をリリース

Afrika Bambaataa & The Soulsonic Force - Planet Rock


『Planet Rock』
クラフトワーク1977年リリース『Trans Europe Express』
映画『夕陽のガンマン』のテーマ
を融合して創った曲です

Kraftwerk - Trans Europe Express

夕陽のガンマン テーマ


Def Jam Recordingsの創設者:リック・ルービン曰く

「全ての中で最も影響力のある曲のひとつだ。この曲が世界を変えたのさ」

音楽メディア「Rolling Stone」は
1980年代以降のダンスミュージックの歴史を変えた最重要曲として
Planet Rock』を「歴史上最も偉大なヒップホップ・ソング」第3位に選出


ヒップホップの影響は他ジャンルにも


1982年
ラップをとりいれる(1:55~)

Blondie - Rapture


1983年
スクラッチを取り入れた

Herbie Hancock - Rockit


ブレイクダンスを披露

Flashdance - Final Dance / What A Feeling


こんな流れでヒップホップは 世界中に認知されるようになっていきます


1983年:Run-D.M.C.登場


『It's Like That』でシングル・デビュー


1984年のファースト・アルバム『Run-D.M.C.』はヒップ・ホップのアルバム初のゴールド・ディスクを獲得

アディダス・スーパースターとカンゴール・ハット


1968年
ブロック・パーティーでも人気が高かったエアロスミスの『Walk This Way』をリメイクして大ヒット
この曲によってヒップホップが爆発的に広がっていきます


Def Jam Recordings

1984年
ラッセル・シモンズとリック・ルービンが
ヒップホップとR&Bの専門レコード・レーベル
『Def Jam Recordings』を設立

Def Jamが成し遂げた大きな功績は何といっても

「ヒップホップを人種の壁を越え世界中に広めた」

ことです


ラッセル・シモンズ
はカーティス・ブロウをプロデュースしていることでも有名で、リック・ルービンと次々に中産階級の才能あるラッパーたちを誘い込みます

第1弾アーティストは?当時16歳の LLクールJ
『I need a Beat』でデビュー

LLクールJの由来は「Ladies Love Cool James」の略

翌年85年には1stアルバム『Radio』をリリースしてプラチナディスク獲得


同じくDef Jam初期にデビューしたもう一つの革命的ラップ・グループが?

ビースティ・ボーイズ(元々はハードコア・パンク・バンド)


パブリック・エネミー
1987年
アルバム『Yo!Bum Rush the Show』でデビュー

ラジオで放送するには乱暴過ぎると言われたにも関わらず大ヒット

「ラップはブラック・アメリカンにとってのCNNだ」


Def Jamのスゴいところは
常にシーン先読みして様々な角度からアーティストを発掘
リスナーのニーズを満たしていったところです



おじさん世代に伝えたいこと


アメリカの中でも一番貧しく見捨てられたブロンクスで生まれた文化であるヒップホップが世界的に認められた

オールドスクール時代 (1970年代 - 1983年)~ミドル・スクール 時代(1984年– 1987年)


小さなコミュニティの内輪的な活動にすぎなかった『ブロック・パーティー』が一気にオーバーグラウンドに浮上して商業的に成功することがわかると他ジャンル・他業界を巻き込んだ一大ムーブメントに発展しました


《ヒップホップの教訓》

イノベーションを生む鍵は?
多様な個性を持つメンバーを集めて異質なビジョンを組織全体で戦わせて「建設的な意見の対立」をつくること
しかし各人の認識パターンや行動における志向を互いに理解し合える土壌がなくては個性を潰し合う

仕事の生産性や創造性を促進する要素として働く人のマインドが重要であることは言うまでもない
このモチベーションの考え方に新しい枠組みを提示するのが
『マネジャーの最も大切な仕事』である
 

グループが最良の仕事をするには?
課題に関する豊富な知識と熟達とした技能が必要であると同時に 
常識的見識や確立したやり方にとらわれない新鮮な視点が不可欠

次号へ続く


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?