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R&Bとソウル・ミュージック⑥”闘争の60年代”への”不都合な真実の50年代”

私なりのソウル・ミュージックとは?

1960年代を頂点とする(ある時代の一連の社会状況から生まれた)アメリカ黒人の”自由を希求する南部の夢”を表現する”ブルース”や”ゴスペル”などの精神的ルーツの影響が色濃い「サザン・ソウル(ディープ・ソウル)」と称される気持ちを高揚させる音楽ジャンル。

第二次世界大戦後~1950年代の得体の知れない「時代の欲望」と思える大きな渦が、ソウル・ミュージック形成に大きな影響を与えたことは間違いありません。


1955年は時代の分岐点


冷戦下のアメリカは、テレビの普及を利用して、宗教も階級も越えた”共通の文化”を生み出していきました。
『アイ・ラブ・ルーシー』『パパはなんでも知っている』などの”シットコム”が人気になり「アメリカ人として”理想の家族”はこうあるべき」というイメージを押し付けていったのです。

この広がり始めた「横並びの幸せ」を端から享受できない人々も存在しています。その代表格が黒人コミュニティ。

『自由と民主主義の理想的姿』を世界中に広げたいアメリカにとって、”不都合な真実”でしかない建国以来の越えがたい深い溝「人種差別」

公民権運動のスタート地点の事件と出来事

【1955年8月】
黒人コミュニティだけでなく全米を震撼させた「エメット・ティル殺害事件」が起こります。

【1955年12月】
アラバマ州モントゴメリーの黒人たちは「人種差別」への抗議として、バス乗車のボイコットを始めました。(この運動の主導者がキング牧師

Rosa Parks


「ロックン・ロール(Rock'n Roll)」ブーム

【1955年1月28日】
エルヴィス・プレスリーが「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ」に初出演してShake, Rattle & Rollを披露。

【1955年3月19日】
映画『暴力教室』が公開されて、主題歌ビル・ヘイリーの「Rock Around The Clock」が大ヒット。

Sidney Poitier

【1956年1月27日】 
エルヴィスは6枚目シングル『Heartbreak Hotel / I Was the One』をリリース(4月にチャート第1位を獲得)

【1956年9月9日】
エルヴィスが「エド・サリヴァン・ショー」に出演(視聴率:82.6%)
(1956年10月28日・1957年1月6日にも出演)


エルヴィスは歌で「人種問題の壁」を簡単に乗り越えてしまったのです。

チャック・ベリー、リトル・リチャードなどの黒人アーティストの活躍もありました。
しかし、白人のロックン・ロール歌手が商業的成功を収めるに従って、次第にロックン・ロールは”白人音楽”として浸透していきます。

このような現象が起きた理由は、音楽それ自体に内在するというよりは、時代にあったといえます。


チャーリー・パーカー逝去

【1955年3月12日】
「西洋音楽市場の大革命」とまで言わしめたビ・バップの創始者である天才チャーリー・パーカーが、ジャズのパトロンである愛称はニカ【パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター (Pannonica de Koenigswarter)】が住んでいたマンハッタンのスタンホープホテルでTVを観ながら息を引き取ります。

検視官はバードの年齢を55歳から60歳と推定しました( 実際は34歳)

Charlie Parker

ニカは、イギリスの財閥ロスチャイルド一族である大富豪の一人です。
白人女性の部屋で、黒人ジャズ・ミュージシャンが死亡したことをマスコミは大スキャンダルとして扱います。

このことで、ニカはホテル暮らしができなくなりました。


マイルス・デイヴィス伝説の始まり

【1955年7月17日】
マイルス・デイヴィスが「第2回ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に飛び入り参加して伝説的パフォーマンスをします。
この名演がきっかけとなって、大手レコード会社コロムビアと契約を結び、マイルスがスーパースターの道を歩むようになっていきました。

「〈ラウンド・ミッドナイト〉をやったんだが、オレがミュートで吹くと、みんな大騒ぎになった。あれは、すごかった。ものすごく長いスタンディング・オベーションを受けたんだ。ステージを降りると王様のように見られ、レコーディングの話を持っていろんな奴が押しかけてきた。」

マイルス・デイビス自叙伝


1955 年 1 月R&Bチャート第1位:レイ・チャールズ「I Got a Woman」



1955年10月28日映画「理由なき反抗」公開



揺るぎ始めたアメリカの威信


リトルロック事件【1957年】

アーカンソー州の州都リトルロックの中等教育学校「リトルロック・セントラル・ハイスクール」において、アフリカ系アメリカ人の9人の高校生が初めて入学しようとした際に、知事のオーヴァル・ファウバス(Orval Faubus)が牽引役となって、白人学生や市民らの反対により、入学を妨害された事件が起こります。

この事件は、テレビや新聞、ラジオなどで全米に止まらず世界中に報じられました。

この報道によって、ドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)大統領は重い腰を上げて連邦軍を派遣します。

1957年10月4日:ソ連が人類史上初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げ成功

この1か月後、宇宙犬”ライカ”を乗せた「スプートニク2号」の打ち上げの成功

1957年12月6日
アメリカの威信をかけたヴァンガード(人工衛星を搭載したロケット)は、発射2秒後に爆発

ヴァンガードロケットの爆発

ロックン・ロールの迫害~ブーム終焉

人種間の壁を打ち壊すきっかけとなったロックン・ロールは「世代間の壁」を生みだすとともに、人種分離政策を推進する白人中産階級がロックン・ロールがラジオ放送禁止に向けてメディアへの圧力強化します。

「ぺイオラ・スキャンダル」「エルヴィスの徴兵」「人気ミュージシャンの事件・事故死」によってロックン・ロールは衰退の一途 を辿ります。

ロックン・ロールは胡散臭いインチキ音楽だ、これを歌う者、演奏する者、書いた者、皆いい加減な奴らだ。繰り返される、馬鹿馬鹿しく、淫らで卑猥な歌詞は”もみあげ”を伸ばした不良少年たちの雄叫びのようなものだ

当時の国民的大スター:フランク・シナトラ曰く

その後、音楽チャー トは”白人アイドル”のポップスが台頭し始めます。


ブリル・ビルディング・サウンドの隆盛

ニューヨーク市マンハッタンのブロードウェイ1619番地に建てられたブリル・ビルディング。音楽出版社がオフィスを構え、整列した小部屋では、音楽出版社専属の作曲家・作詞家コンビが曲作りして、スタジオ・ミュージシャンがデモテープを録音する 「曲の発注~プロデュース~作曲・作詞~録音まで」が流れ作業で行われていました。

「工場化」された音楽制作のシステムは「ブリル・ビルディング・サウンド」として知られていて、当時のアメリカの音楽産業に大きな影響を与えます。ラジオ局やレコード会社に音楽が提供され、多くのヒット曲が生まれました。(キャロル・キングやジェリー・リーバー、マイク・ストーラー、ニール・ダイアモンド、バリー・マンなど、多くの有名な作曲家や作詞家が在籍していたことでも知られています。)

「ブリル・ビルディング・サウンド」は、音楽業界がアーティストよりも白人の出版社・事務所の経営陣に権力が移行していった典型的な現象です。

デトロイトでのムーブメント

この音楽業界の一連の流れは、モータウン・レコード創業者ベリー・ゴーディ(Berry Gordy)にとっては追い風となったと思います。

黒人をターゲットにした【R&Bチャート(レイス)】でヒットするだけでなく白人をターゲットにした【ポップ・チャート】でもヒットして『アメリカン・ミュージック』としてのスターになることが黒人アーティストの目標

黒人社会の窮状を明らかにすることではなく、白人にも受け入れられる黒人音楽を創り出すことで、人種を融合するクロスオーバーを実現できて、黒人の社会での発言力を向上させる現実的な方法である

ベリー・ゴーディの当時の考え方

その後、スモーキー・ロビンソンが補足します。

「自分は黒人であることを誇りに思っている、それは確かだが、ステージはそのことについて説教する場所ではないと思う。」

当時の時代背景を考えると、目に見える政治的な行動をとりキャリアを脅かすようなリスクは避けることは正解だったのかもしれません。


アメリカのルーツ・ミュージックをふりかえると、黒人が始めたものを白人が模倣し、いっそう洗練させて大衆にうけるものにしたという現象をくりかえしています。

ちくま新書『はじめてのアメリカ音楽史』より抜粋

モータウン・サウンドは、黒人が「白人受けする」ように洗練させた音楽で人種の境界線を越境した「黒人文化の発見」という社会文化的評価は極めて高いとは思います。


しかし、私の個人的な勝手な見解に過ぎませんが

モータウン・サウンドはソウル・ミュージックではありません



闘争の60年代へ



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