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1955年~1959年マイルス・デイヴィスのアルバム

1955年のマイルス・デイヴィス


①『The Musings of Miles(録音:1955年6月7日)』

マイルスのトランペットのみというワンホーンの作品


②『Blue Moods(録音:1955年7月9日)』

マイルスはチャールズ・ミンガスへの借金返済のためにレコーディングに参加したらしい(4曲 収録時間は30分弱)

「このレコーディングは、何か問題があってすべてがうまく噛み合わず、熱気のないものになってしまった。なんのせいだったかはよくわからない。アレンジのせいかもしれないが、明らかにうまくいかなかった。」(引用:マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ)


③『Miles Davis And Milt Jackson - Quintet / Sextet(録音:1955年8月5日)』

ミルト・ジャクソンとの共演作


④『ラウンド・アバウト・ミッドナイト(Round About Midnight)録音:1955年10月26日-1956年9月10日』

コロンビアへの移籍第一弾で 商業的に成功し マイルスのイメージを形作る作品となります

一曲目の"Round Midnight"の録音はジャズの中でも最も有名なものの一つ

マイルスのバージョンはギル・エヴァンスのアレンジを元にしたものだと言われています


⑤『マイルス(New Miles Davis Quintet)録音:1955年11月16日』

「プレスティッジへの義務を果たすために、十一月にレコーディングした。……『マイルス』は決して悪い出来じゃなかったが、次のレコードでオレ達がやったことに比べたら、取るに足らないものだった。」 (引用:マイルス・デイビス自叙伝)


⑥ マラソンセッションの録音も1956年

マイルス・デイヴィスは プレスティッジとの契約契約解消のため1956年5月11日と1956年10月26日の2日間で4枚のアルバムを制作します(ほとんどがの曲が一発録り)

この4枚のアルバムは 同時リリースされません

その理由は コロンビア・レコードに移って知名度を上げスターに駆け上がっていくマイルス人気に便乗して売上拡大を図ったからです

『Cookin'』:1957年リリース(この作品だけは全て10月26日録音)

『Relaxin'』:1958年リリース

『Workin'』:1959年リリース

『Steamin'』:1961年リリース


1957年のマイルス


①『マイルス・アヘッド(Miles Ahead)録音&リリース:1957年』

コロンビア・レコードが予算を贅沢に使ったギル・エヴァンス・オーケストラとの共演アルバムで 大衆向けにマーケティングされたものでした

当時のライナーノーツではマイルスが新人として扱われて ジャケットは「船の上の白人女性」でした

スクリーンショット (495)

このジャケットに怒ったマイルスは 自分自身の写真に差し替えます

トラックに切れ目がなく曲間が繋がっていて 当時の最新技術だったオーバー・ダビングによる録音やテープ編集が行われています


②『死刑台のエレベーター(Ascenseur Pour L'Echafaud)録音:1957年』

以前恋仲になったジュリエット・グレコの仲介で ルイ・マル監督の映画「死刑台のエレベーター」のサウンドトラックとしてパリで制作され1958年にリリースされました

マイルスが映画を見ながら即興で録音したという伝説になっています


1958年のマイルス


①『Milestones(録音:1958年2月4日&3月4日)』

マイルスが初めて 従来のハード・バップとは違ったコード主体ではなく旋律主体のモード奏法を用いた作品


②『Somethin' Else(録音:1958年3月8日)』

キャノンボール・アダレイの名義だが 実質はマイルスのリーダー作で1954年以来となるブルーノートでの録音(1950年代初期にマイルスを救済したアルフレッド・ライオンへの恩返しと言われています)


③『Porgy & Bess(録音1958年 リリース:1959年)』

作曲家ガーシュインの黒人文化を元にしたオペラに取り組んだ ギル・エヴァンス・オーケストラとの共演ニ作目

リリース以来多くの批評家の称賛を集めている歴史的に重要なアルバム


④『Jazz at the Plaza(録音:1958年9月9日)』

コロンビア主催のニューヨーク、プラザ・ホテルでのパーティーの録音で 音質面で難あり

「ビルがバンドを去る原因になったいくつかの事柄に、オレは本当に腹を立てた。たとえば、バンドにいるたった一人の白人というだけで、何人かの黒人連中がした仕打ちだ。ジャズ界最高のバンドで、ギャラも最高なんだから、黒人のピアニストを雇うべきだなんて考えてる野郎がたくさんいたんだ。もちろん、オレはそんなことにかまっちゃいない。いつだって最高のミュージシャンが欲しいだけだ。黒だろうが白だろうが、青でも赤でも黄でも、なんだっていい。」(引用:マイルス・デイビス自叙伝)


1958年ニューポート・ジャズ・フェスティバル


「ニューポートのマイルス・デイビス1955-1975:ブートレグ・シリーズVol.4」に同じライブが収録されています

この年のフェスティバルを映画化したのが『真夏の夜のジャズ』です



残念ながら デューク・エリントン&ヒズ・オーケストラとマイルス・デイヴィス・クインテットは このフェスに出演しましたが映像化されていません

「ニューポート・ジャズ・フェスティバルでも演奏したが、もちろん大成功だった。」(引用:マイルス・デイビス自叙伝)


更なる挑戦の1959年


1959年3月2日 4月22日 名作『Kind of Blue』レコーディングを行います


その後『Sketches Of Spain』の制作にとりかかります



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