R&Bとソウル・ミュージック①音楽も肌の色で分離されることが"当たり前"
「そもそもソウル・ミュージックとは?」
”音楽のジャンル分け”に意味があるかどうかは、人それぞれの考えがあるとは思いますが、あえて定義すると下記の文章が妥当と思います。
”ソウル”という言葉には、アフリカ系アメリカ人の「誇り」「文化」「共通意識」「資質」などを感覚的に表し、自己確認のための音楽といった含みでとらえるべきと思います。
究極的には、ソウル・ミュージックは自由を希求する南部の夢から生まれたもの
Race Record
当時は、黒人アーティストによるレコーディングに対して一般的に
「Race Record(人種レコード)」という用語が使用されていました。
1920年8月8日リリースのマミー・スミス(Mamie Smith)の「Crazy Blues」が、ハーレム地区、シカゴ、フィラデルフィアなどで大ヒット。
(最初の1カ月で75,000枚、1年で100万枚売れたという報告も存在する。)
このヒットで配給元のOkeh Recordsは「黒人マーケットでもレコードが売れる」と感じて、1922年に「Race Record」の用語を使うようになりました。
「Crazy Blues」のヒットで、コロンビア・レコード、パラマウント・レコードなどの大手企業も「Race Record」業界に参入していきました。
List of Harlem Hit Parade number ones of 1942
1942年、ビルボード誌は、主にニューヨーク市ハーレム地区のレコード店の調査に基づいて、「ハーレムで最も人気のあるレコード」を『ハーレム・ヒット・パレード(Harlem Hit Parade)』と題したチャート発表を始めました。
記念すべき第1回目(1942年10月24日付)の第1位:"Take It And Git"
by Andy Kirk And His Twelve Clouds Of Joy
1942 年は6 曲が第 1 位になりました。この年のチャートには、ビリー・ホリディ(Billie Holiday)がニックネーム「Lady Day」(※)の名で11月7日付チャートで第1位「Trav’lin’ Light(歌は1:11~)」を獲得します。
ビルボード誌は、1943年~1945年2月10日付チャートまでは「Harlem Hit Parade」という名称なのですが、1945年2月17日チャートから
「Most Played Juke Box Race Records」に名称変更します。
小売売上高ではなく、ジュークボックスで曲が再生された回数に基づいたランキングへの変更理由は極めてリーズナブルなのですが、敢えて「Race(人種)」という用語を使う必要があったのか?
今にして思えば、「Race Record」という用語は軽蔑的に見えるかもしれませんが、当時の報道機関は、アフリカ系アメリカ人全体を指すために「Race」という用語を日常的に使用するが”当たり前”だったのです。
1940年代~1950年代前半の人気黒人アーティスト
ルイス・ジョーダン(Louis Jordan)やジョー・リギンス(Joe Liggins)が活躍します。
Joe Liggins - The Honeydripper Parts 1 & 2
この楽曲は、18週間首位の大記録(※)となりました。
1948年従来のR&Bの概念を変えた楽曲
「最初のR&Bボーカル・グループ」と呼ばれているオリオールズ(The Orioles)、彼らのデビュー曲「It's Too Soon To Know」をお聴きください。
この楽曲は、1948年11月27日付R&Bチャートで第1位を獲得
ビルボード誌の1948年9月4日号で、このレーベル(※)と楽曲について次のように高評価しました。
「It's Too Soon To Know」は、1948年8月21日に、ジェリー・ブレイン(Jerry Blaine)が設立した『Natural Records』からの最初の78回転シングルとしてリリースされました。
しかし、1945 年にアルバート グリーン(Albert Green)によってニューヨーク市で設立された『ナショナル・レコード(National Records)』から「名前が近すぎて安心できない?」と苦情があり、『ジュビリー・レコード(Jubilee Records)』から再発されます。
苦情の真意は分かりませんが、音楽関係者の間では
という機運が高まっていったのではないでしょうか?
1949年から『R&Bチャート』に名称変更
この変更は、ジェリー・ウェクスラー(Jerry Wexler)の提案で『Race Rcord』から『Rhythm&Blues (R&B)』と表現することに変更されました。
1953年にウェクスラーは副社長としてアトランティック・レコードに迎え入れます。彼は、ソウル・ミュージックを語る上での重要人物の一人です。
Billy Ward and his Dominoes
ビリー・ウォード・アンド・ヒズ・ドミノズは、1950 年代初頭に最も成功した R&B グループです。(クライド・マクファター(Clyde McPhatter)とジャッキー・ウィルソン(Jackie Wilson)が所属していました。)
1951年5月にリリースした「Sixty Minute Man」がR&Bチャート第1位獲得して14週間トップを維持しました。
この楽曲は多くのラジオ局で放送禁止となり、当時としては斬新な歌詞だったのです。
1953年の2曲
1953年に次の楽曲がR&Bチャートの1位となるのですが、それまでの常識とされてきた様々な慣習を軽く”いなし”ます。
The Orioles - Crying in the Chapel
Faye Adams - Shake A Hand
この楽曲はR&Bチャートで10週間トップとなり、ポップ・チャートでは22位ゴールドディスクを受賞しました。
この2曲に共通する歌詞の「あなた」の意味が
「恋人なのか?」「神を指しているのか?」
ブルースの歌詞で使われていた「ダブル・ミーニング」を用いて、歌詞が許容範囲の限界を押し広げ、ゴスペルとブルースの垣根を越えて、黒人だけでなく多くの白人リスナーにもアピールようになったのです。
このヒットを契機にして、南部の多くのゴスペル・グループが、この新しい流れに飛びついていきました。
続く
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?