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R&Bとソウル・ミュージック①音楽も肌の色で分離されることが"当たり前"

「そもそもソウル・ミュージックとは?」

”音楽のジャンル分け”に意味があるかどうかは、人それぞれの考えがあるとは思いますが、あえて定義すると下記の文章が妥当と思います。

【ソウル・ミュージック】
1960年代を頂点とする,アメリカ黒人の現代的な大衆音楽。
第2次世界大戦直後に興ったリズム・アンド・ブルースが,ゴスペル・ソング,ジャズ,白人のポピュラー音楽などの影響をうけ,ワシントン大行進(1963)に象徴される公民権運動の高まりにも刺激されて,黒人の感性を洗練されたサウンドで表現する音楽形態として発展した。これをそれ以前のリズム・アンド・ブルースと区別して,ソウル・ミュージックと呼ぶ。

世界大百科事典 第2版

”ソウル”という言葉には、アフリカ系アメリカ人の「誇り」「文化」「共通意識」「資質」などを感覚的に表し、自己確認のための音楽といった含みでとらえるべきと思います。

「ソウル・ミュージックはアメリカ黒人が作り出したもので、何より気持ちを高揚させる音楽」(イギリス人ライター:クライヴ・アンダーソン談)

ピーター・ギュラルニック著「スィート・ソウル・ミュージック」より抜粋

「南部における人種問題と、それが予示した急激な社会的大変動がソウル発生の一つの要因だったことは間違いない。」

ピーター・ギュラルニック著「スィート・ソウル・ミュージック」より抜粋


究極的には、ソウル・ミュージックは自由を希求する南部の夢から生まれたもの

Race Record

当時は、黒人アーティストによるレコーディングに対して一般的に
「Race Record(人種レコード)」という用語が使用されていました。

1920年8月8日リリースのマミー・スミス(Mamie Smith)「Crazy Blues」が、ハーレム地区、シカゴ、フィラデルフィアなどで大ヒット。
(最初の1カ月で75,000枚、1年で100万枚売れたという報告も存在する。)

このヒットで配給元のOkeh Recordsは「黒人マーケットでもレコードが売れる」と感じて、1922年に「Race Record」の用語を使うようになりました。

「Crazy Blues」のヒットで、コロンビア・レコード、パラマウント・レコードなどの大手企業も「Race Record」業界に参入していきました。

レコード産業が台頭する前のアメリカでは、レコードの目的は「蓄音機の販売促進ツールのひとつ」で、家具店で販売されているのが一般的でした。
白人と黒人が家具を購入する店は別々で、蓄音機は高額な販売価格なので「黒人がレコードを購入する」という発想はなく、初期のレコードでは主に黒人を中心としたジャンルの音楽は販売されていなかったのです。

List of Harlem Hit Parade number ones of 1942

1942年、ビルボード誌は、主にニューヨーク市ハーレム地区のレコード店の調査に基づいて、「ハーレムで最も人気のあるレコード」を『ハーレム・ヒット・パレード(Harlem Hit Parade)』と題したチャート発表を始めました。

記念すべき第1回目(1942年10月24日付)の第1位:"Take It And Git"
by Andy Kirk And His Twelve Clouds Of Joy

Andy Kirk

1942 年は6 曲が第 1 位になりました。この年のチャートには、ビリー・ホリディ(Billie Holiday)がニックネーム「Lady Day」(※)の名で11月7日付チャートで第1位「Trav’lin’ Light(歌は1:11~)」を獲得します。

Lady Day=Billie Holiday

(※) テナー・サックスのレスター・ヤング(Lester Young)が、ビリー・ホリディのニックネーム「Lady Day」の名付け親です。ビリーはレスターを「Prez」と呼んでいました。

ビルボード誌は、1943年~1945年2月10日付チャートまでは「Harlem Hit Parade」という名称なのですが、1945年2月17日チャートから

「Most Played Juke Box Race Records」に名称変更します。


小売売上高ではなく、ジュークボックスで曲が再生された回数に基づいたランキングへの変更理由は極めてリーズナブルなのですが、敢えて「Race(人種)」という用語を使う必要があったのか?

今にして思えば、「Race Record」という用語は軽蔑的に見えるかもしれませんが、当時の報道機関は、アフリカ系アメリカ人全体を指すために「Race」という用語を日常的に使用するが”当たり前”だったのです。


1940年代~1950年代前半の人気黒人アーティスト

ルイス・ジョーダン(Louis Jordan)ジョー・リギンス(Joe Liggins)が活躍します。

Louis Jordan

ルイス・ジョーダン(Louis Jordan)
1943 年に初めてナンバー 1 を獲得。通算18回のチャートトップ獲得。
113週1位を維持した大記録を打ち立てた「ジャンプ・ブルース」の第一人者で1940 年代で最も成功したアーティストの一人です。
1950 年代に入り急激に人気が衰えましたが、彼の音楽は R&B とロックンロールの両方の発展に多大な影響を与えたと考えられます。

Joe Liggins

Joe Liggins - The Honeydripper Parts 1 & 2 

この楽曲は、18週間首位の大記録(※)となりました。

(※) 2019年『Lil Nas X - ”Old Town Road”』が19週連続首位獲得まで、この楽曲の記録は破られなかった。


1948年従来のR&Bの概念を変えた楽曲


「最初のR&Bボーカル・グループ」と呼ばれているオリオールズ(The Orioles)、彼らのデビュー曲「It's Too Soon To Know」をお聴きください。

この楽曲は、1948年11月27日付R&Bチャートで第1位を獲得

ビルボード誌の1948年9月4日号で、このレーベル(※)と楽曲について次のように高評価しました。

"New label kicks off with a fine quintet effort on a slow race ballad. Lead tenor shows fine lyric quality"
「スローなレース・バラードをテーマにした素晴らしいクインテット作品で新レーベルが幕を開ける。リード・テナーは、歌詞が持つ美しさや感動を表現した(歌詞自体が持つ芸術的な価値や、聞き手の心に響く力が高いこと評価した)」

「It's Too Soon To Know」は、1948年8月21日に、ジェリー・ブレイン(Jerry Blaine)が設立した『Natural Records』からの最初の78回転シングルとしてリリースされました。

しかし、1945 年にアルバート グリーン(Albert Green)によってニューヨーク市で設立された『ナショナル・レコード(National Records)』から「名前が近すぎて安心できない?」と苦情があり、『ジュビリー・レコード(Jubilee Records)』から再発されます。

苦情の真意は分かりませんが、音楽関係者の間では

「黒人アーティストの音楽は白人マーケットでも売れるぞ!」

という機運が高まっていったのではないでしょうか?


1949年から『R&Bチャート』に名称変更


この変更は、ジェリー・ウェクスラー(Jerry Wexler)の提案で『Race Rcord』から『Rhythm&Blues (R&B)』と表現することに変更されました。

この時点までのリズム・アンド・ブルースは、まさにその名前から示唆される通りの音楽だった。つまりテンポが速いか、あるいは少なくとも現代的なリズム(重いバックビートの導入は、そのままロックンロールへと受け継がれていく)のブルースの変種でしかなかった。当然、こうした音楽を演奏するのは黒人アーティストに限られ、聴衆もほぼ例外なく黒人だった。
「レイス・ミュージック(人種音楽)」と呼ばれた理由はここにある。

ピーター・ギュラルニック著「スィート・ソウル・ミュージック」より抜粋

1953年にウェクスラーは副社長としてアトランティック・レコードに迎え入れます。彼は、ソウル・ミュージックを語る上での重要人物の一人です。

Jerry Wexler

Billy Ward and his Dominoes

ビリー・ウォード・アンド・ヒズ・ドミノズは、1950 年代初頭に最も成功した R&B グループです。(クライド・マクファター(Clyde McPhatter)とジャッキー・ウィルソン(Jackie Wilson)が所属していました。)

Billy Ward and his Dominoes

1951年5月にリリースした「Sixty Minute Man」がR&Bチャート第1位獲得して14週間トップを維持しました。

この楽曲は多くのラジオ局で放送禁止となり、当時としては斬新な歌詞だったのです。

There'll be fifteen minutes of kissin'
Then you'll holler "Please don't stop" (Don't stop!)
There'll be fifteen minutes of teasin'
Fifteen minutes of squeezin'
And fifteen minutes of blowin' my top

1953年の2曲

1953年に次の楽曲がR&Bチャートの1位となるのですが、それまでの常識とされてきた様々な慣習を軽く”いなし”ます。

The Orioles - Crying in the Chapel

ジュビリー・レコードは、オリオールズの「Crying in the Chapel」がポップ・チャートでトップ20入りを果たしたとき、黒人ボーカル・グループが白人市場に進出した最初の独立系レコード・レーベルとなったのです。

Faye Adams - Shake A Hand

この楽曲はR&Bチャートで10週間トップとなり、ポップ・チャートでは22位ゴールドディスクを受賞しました。


この2曲に共通する歌詞の「あなた」の意味が
「恋人なのか?」「神を指しているのか?」
ブルースの歌詞で使われていた「ダブル・ミーニング」を用いて、歌詞が許容範囲の限界を押し広げ、ゴスペルとブルースの垣根を越えて、黒人だけでなく多くの白人リスナーにもアピールようになったのです。



このヒットを契機にして、南部の多くのゴスペル・グループが、この新しい流れに飛びついていきました。


続く



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