見出し画像

【ハード・バップ真只中】1955年を起点としてジャズも社会も新しい動きへ

時に 今まで誰も挑戦しなかった新しい行動を起こそうとすると 最初は多くの人が冷ややかな目で眺めてバカにします

ところが その人物を追随する人が現れて 更に追随者が出ていくと 今までマイナーだったことが一気にメジャーとなって 最後は一大ムーブメントかのように 多くの人を巻き込む動きが起こっていきます 

これが社会運動・リーダーシップが効力を発揮する基本的な流れです


『ハード・バップ』は 黒人主導で創造してきた『ジャズ』が「大衆性」と「芸術性」を併せ持つ『鑑賞芸術』として到達点のひとつです 

『ハード・バップ』が黒人社会に与えた影響は計り知れません


ウエストコースト派 vs イーストコースト派


チャーリー・パーカーの『ビ・バップ』は【西洋音楽史上の大革命】と言われるほど ジャズ・ミュージシャンに限らず多くの音楽関係者に大きな影響を与えました

しかし 天才の繰り出す即興演奏に追随できるほどのテクニックを持った黒人ジャズ・ミュージシャンは少なく バードの演奏を真似するだけで同じようなアドリブになって停滞感が漂っていきます


まず『ビ・バップ』の様式から離れていったのがマイルス・デイヴィスです

「『クールの誕生』は、オレが思うに、バードとディズの音楽に対する反動として支持され、コレクターズ・アイテムになったみたいだ。」 (引用:マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ )

『ビ・バップ』はスウィング・ミュージックへの反逆から生まれたものです

『クール・ジャズ』は『ビ・バップ』から枝分かれして『ウエストコースト・ジャズ』として発展していきます

『ウエストコースト派』の「軽さ」「陽気さ」「聴きやすさ」は 音楽産業 視聴者動向の流れに乗ってレコードが売れました

『ウエストコースト・ジャズ』に同調できない『イーストコースト派』は 「激しさ」「活力」を求めて『ビ・バップ』への揺り戻り的な試行を繰り返すようになります


「白人社会」vs「黒人社会」の図式が感じられる動きです



ジャズ・メッセンジャーズ結成前夜


ハード・バップ誕生を高らかに宣言したモダン・ジャズを語る上で絶対に外すことが出来ないライブ・アルバムの最高峰

A Night at Birdland With Art Blakey Quintet (Blue Note1521/1522)

1954年2月21日:バードランドで録音されました

Art Blakey (ds)  Clifford Brown(tp)  Lou Donaldson(as)  Horace Silver(p)  Curley Russell(b)


マイルス復活


ひたすら禁断症状に耐えるという「コールド・ターキー」という荒療治を行ったマイルス・デイヴィスは ドラッグから脱却し 1954年2月にニューヨークに戻ってきます

1954年4月3日&29日ハード・バップの歴史的名盤『Walkin』を録音

1954年6月29日『Bags' Groove』を録音

1954年12月24日:伝説になっているマイルスvsモンクの「ケンカセッション」が含まれるアルバム『Miles Davis and the Modern Jazz Giants』

1955年3月12日 チャーリー・パーカー逝去 


ジャズのパトロンである愛称はニカ【パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター (Pannonica de Koenigswarter)】(※)が住んでいたイーストサイドのスタンホープホテルでTVを観ながら息を引き取ります

検視官はバードの年齢を55歳から60歳と推定しました( 実際は34歳)

バードの死の数日後から マンハッタンの地下鉄やビルの壁のあちこちに

“BIRD LIVES !” 

と多くのファンが追悼の意味で落書きをしました

スクリーンショット (488)


1955年4月2日:カーネギー・ホールでバード追悼コンサート開催


オープニングはレスター・ヤング

【出演者】サラ・ヴォーン ビリー・ホリデイ ダイナ・ワシントン パール・ベイリー ビリー・エクスタイン サミー・デイヴィスJr ヘイゼル・スコット レニー・トリスターノ スタン・ゲッツなど

真夜中から午前4時までという時間帯に行われましたが 2,700人もの観客で埋め尽くされ 外にはあふれた何百人ものファンがいたそうです


バードを評価しなかった音楽出版界も 挙って取り繕ったとも思える感動的な追悼文を掲載しました

しかし残念なことにマスコミは 

イギリスの財閥ロスチャイルド一族である大富豪の白人女性の部屋で 黒人ジャズ・ミュージシャンが死亡したことを 大スキャンダルとして扱います

(※)パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター

http://zip2000.server-shared.com/pannonica.htm


マイルス伝説の始まり


1955年6月7日マイルスのトランペットのみのワンホーンの作品『The Musings of Miles』を録音(同年リリース)

1955年7月17日 マイルス・デイヴィスのニューポート・ジャズ・フェスティバルに飛び入り参加して伝説的名演を繰り広げます

「〈ラウンド・ミッドナイト〉をやったんだが、オレがミュートで吹くと、みんな大騒ぎになった。あれは、すごかった。ものすごく長いスタンディング・オベーションを受けたんだ。ステージを降りると王様のように見られ、レコーディングの話を持っていろんな奴が押しかけてきた。」(引用:マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ)

その後 コロンビア社からの契約オファーを受けます

「1955年10月に『カフェ・ボヘミア』に出ている時に、オレ達はコロンビアのためのレコーディングに入った。だがそれは、プレスティッジとの取り決めがあったから、1956年5月まで出せなかった。」(引用:マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ)

1955年10月26日・1956年6月5日&9月10日

コロンビアでの一作目『Round About Midnight』を録音します


マイルスは プレスティッジとの契約解消のため

1955年11月16日『New Miles Davis Quintet』録音 

1956年5月11日と1956年10月26日の2日間で「マラソン・セッション」と呼ばれている4枚のアルバム(『Cookin'』『Relaxin'』『Workin'』『Steamin'』)を制作します

「もちろん、ボブとプレスティッジがしてくれたことには感謝もしていた。だが、コロンビアが金やチャンスを約束した今こそ、前進すべきことは明らかだった。」(引用:マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ)


モンゴメリー・バス・ボイコット運動


1955年12月1日 黒人女性のローザ・パークスは混雑してきたバスの中で運転手からの「席を譲れ」という命令を拒否しました

4日後の12月5日 彼女は市条例違反で有罪(14ドルの罰金刑)

この事件を機に 黒人活動家 マーティン・ルーサー・キングJrらの働きかけ『4万人の地元黒人が通勤もプライベートでもバスを使わないボイコット運動』を敢行します

ボイコット運動は 1956年12月連邦最高裁判所が「違憲判決」を出すまで381日間も続きました

3つの行動規範:『非暴力』『直接行動』『不服従』


このボイコット運動の3か月前の1955年8月28日には恐ろしい事件が起こっていました

シカゴからミシシッピーの親戚を訪ねたエメット・ルイス・ティル黒人少年(14歳)が食料雑貨店のレジ担当白人女性に「口笛を吹いてちょっかいを出そうとした疑惑」から発生したもので この「ちょっかい」を聞いた白人女性の旦那と異母兄弟二人は ティル少年を誘拐し 納屋で目玉をえぐり出すなどのリンチを食わて 銃で頭を撃ち 有刺鉄線を首に巻き付けて30キロもの重りをつけて川に遺棄した事件です


陪審員全員が地域有力者の白人男性だったので 犯人は無罪になります


1955年9月6日 ティル少年の母親は 棺を開けた状態での公開葬儀を開催します(ネットフリックス映画『A Sam Cooke Story』には公開葬儀も登場)



音楽は社会を変える力を持っている


『1955年の音楽(Wikipedia)』を検索して「洋楽アルバム」の欄を見ると 驚くほどジャズ・アルバムばかりです


『音楽』は オーディエンスに呼びかけ『偏見』『先入観』に凝り固まった考えを瓦解へと導いていことができるエンパワーメントが持っています

『ハード・バップ』ムーブメントは 黒人意識高揚運動・公民権運動の背中を押しました


イノベーションは「常識からの逸脱行為」によって生まれてくるものです

アーティストが創造する『問いかけ』によって アメリカ社会が抱えている問題とシンクロし始めて 

黒人が自主的に行動する起点となったのが 1955年 


西洋音楽史上の大革命を起こした天才の死を境にして 

時代の流れは大きく変わりました


1955年8月20日 チャック・ベリーがチェス・レコードから初のシングル「Maybellene」をリリースしてヒットします


1955年11月21日 エルビス・プレスリーはRCAビクターと契約



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?