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R&Bとソウル・ミュージック③”I Got a Woman”~”What’d I Say”

1952年、アトランティックはレイ・チャールズと契約しましたが、彼は1年以上ベールを被り続けます。

Ray Charles

アトランティックの飛躍

1953 年 2 月
ハーブ・アブラムソンはアメリカ陸軍に徴兵されました。
1953 年 6 月

ビルボード記者のジェリー・ウェクスラーを副社長として迎え入れます
1955年1月
アーメットの兄ネヒス・アーティガンが合流(ジャズ部門強化)

「Mess Around」

1953年6月19日リリース。レイ・チャールズのアトランティックでの初ヒット。(この楽曲は、アトランティックのアーメット副社長(当時)が、A. Nugetre または「Nuggy」のペンネームで書いた曲)


「ザ・ドリフターズ(The Drifters)」と契約

アーメットは、Billy Ward and his Dominoesのリード・テナーだったクライド・マクファター脱退して自分のグループ「ザ・ドリフターズ」を結成していることを知り、マクファターを探し出し、すぐに新しいグループと契約。

最初のシングル「Money Honey」をリリース。
この楽曲は、1953年最大の R&B ヒットとなりました。

その後の彼らのレコードは、挑発的な「Such A Night」はデトロイトのラジオ局WXYZで放送禁止となり、続く「Honey Love」はメンフィスで放送禁止になりましたが、どちらもビルボードR&Bチャートで1位を記録。


1953年~55年(アブラムソンが除隊するまで)の期間で、30曲をR&Bチャートに送り込みます。
これは、インディペンデント・レーベルとしては奇跡的な成功で、競合他社との争いにおいて完全に抜きんでていました。

Spark Records買収

1954年にジェリー・リーバーとマイク・ストーラーによってカリフォルニア州ロサンゼルスで設立されたレコード レーベル。 リーバーとストーラーは曲を書いてレコードを作りたいが、レコード出版の仕組みには関わりたくないと判断して、レーベルをアトランティック・レコードに売却。

Spark Records

ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーとの契約条件は革新的で、他のレーベルでプロデュースできる内容でした。(彼らは事実上の最初の独立したレコードプロデューサー)まず、ドリフターズの活動をサポート



レイ・チャールズ覚醒

1954年11月
レイ・チャールズが、アーメットとウェクスラーをアトランタのロイヤル・ピーコックというクラブに呼び出します。
そこには彼の専属バンドが、いつでも演奏ができる状態でスタンバイしていました。

そこで初めて「I Got a Woman」が披露されたのです。

この曲は 1954 年 11 月 18 日にジョージア工科大学ラジオ局 WGST のアトランタ スタジオで録音されました。レイ・チャールズにとって初めてのヒットとなり、1955 年 1 月にR&Bチャート第1位 。

ウェクスラー曰く「それで決まりだったね」
この曲こそがレイ・チャールズおよびR&Bの真髄であり全ての「原型」


アブラムソン帰国~退任~新体制へ


1955年にアブラムソンはドイツ人のガールフレンド(妊娠中)とともに兵役から戻ってきます。(その後、ミリアムとは離婚)

アブラムソンは、アーティガンとウェクスラーのR&Bを主流聴衆(つまり白人)にクロスオーバーした販売拡大手法、ネスヒのジャズ部門での成功などで自分の居場所のなさを感じます。

ATCO Records

ハーブ・アブラムソンのプロダクションのために「ATCO」レーベルを設立
ATlantic COrporation)

Jerry Leiber and Mike Stoller

1956年 The Coastersのデビュー曲「Down In Mexico」がプチ・ヒット
(この楽曲はジェリー・リーバーとマイク・ストーラーの作品)

The Coasters

他は白人のボビー・ダーリン(Bobby Darin)の「Splish Splash」もヒット


しかし、様々ないざこざがあって、アブラムソンは1958年12月にアトランティック・レコードの株式を元妻のミリアム・ビアンストック(音楽出版社フレディ・ビアンストックと結婚)とネスヒ・アーティガンに売却して退任。

【アトランティックの新体制】
社長:アーメット・アーティガン
執行副社長兼ゼネラルマネージャー:ジェリー・ウェクスラー
副社長兼アトランティック音楽出版社長:ミリアム・ビアンストック
LP部門担当執行副社長:ネスヒ・アーティガン

アトランティックのスケジュールでは、2週間毎に3枚シングルをリリース

例えば、1枚はレイ・チャールズ、もう1枚はビッグ・ジョー・ターナー、残りがドリフターズという感じでした。


レイ・チャールズの一人勝ちの5年間


1955年から1959年の5年間は「レイ・チャールズの一人勝ち」と言うに相応しい成功をおさめます。
「This Little Girl of Mine」や「A Fool for You」がヒット。その後の年には「Drown in My Own Tears」や「Hallelujah I Love Her So」などがヒット。

ジャズも録音。(「The Great Ray Charles(1957)」ミルト・ジャクスンとの共演「Soul Brothers(1958)」など)

1958年には、アポロ・シアターやカーネギー・ホール、ニューポート・ジャズ・フェスティバルなどの主要な会場でヘッドライナー。

1959年2月18日
アトランティックのスタジオで「What’d I Say」を録音
6月にリリースされたこの曲は、白人向けのラジオ局の電波に初めて乗ったR&Bソングとなりました。

ゴールド・ディスクを獲得(レイにとって初めてのミリオンセラー)


レイ・チャールズがABCレコードに移籍


【ABCレコードの条件】
アトランティックよりも遙かに高い印税率。プロダクション契約やプロフィット・シェアリング、マスター・テープの最終的な所有権はレイに。
(これほどの好条件の契約は前例がないもの)

レイ・チャールズは自らのレコード・レーベル「タンジェリン」を設立

揺れ動くアトランティック


レイ・チャールズが去った当時のアトランティックは、売上面でも作品のクオリティも好調でしたが、R&Bの核を失ったことによって

アーメットは『黒人音楽の積極的なレコーディングから身を引く』ことを宣言して、ロック・アーティストへ関心を寄せるようになっていきます。

ウェクスラーのような野心家にとって、手塩にかけたアーティストが何の前触れもなく突然見捨てられたショックは極めて大きかったのです。
そんな憔悴したウェクスラーの前にソロモン・バーク(Solomon Burke)が現れたのです。


ソロモン・バークのアトランティックでの初シングル「Keep The Magic Working」をリリース

この楽曲は全くヒットしませんでした。


第2弾シングルとしてカントリー・ソング「Just Out of Reach」をリリースします。
ウェクスラーは、R&Bシンガーがストレートに歌ったカントリー・ソングが売れるとは思っていませんでした。


しかし「Just Out of Reach」は、ビルボード誌のポップ・チャートで24位、R&Bチャートで7位に達し、初の全国的ヒット曲となったのです。



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