見出し画像

モード演法に至ったマイルス・デイヴィスの発想とリーダーシップ講座

イノベーション思考を一緒に学ぶ

Jazz&HipHop in Business Program


先日の勉強会のダイジェストPart2です

コロンビアと契約したマイルス・デイヴィスでしたが
まだプレスティッジとの契約が残っていました
そこで契約解消のため1956年5月11日と1956年10月26日の2日間で4枚のアルバムを制作します

これが「マラソンセッション」と呼ばれているものです

この「マラソンセッション」は殆どの曲が一発録り
この4枚はハード・バップを代表する名盤としての評価を受けています

マイルスは、これらの作品を最後にメジャーレーベルのコロンビア時代へ

1957年に名盤『Round About Midnight』がリリースされました

ギルは細心で創造的だから、一緒にやるのは大好きだった。アレンジも全面的に信頼していた。オレ達はずっとすばらしいチームだったが、『マイルス・アヘッド』をやった時、ギルとオレは音楽的に特別なものを持っていると、はっきり自覚した。」

マイルス・デイビス自叙伝

コロンビアの予算を贅沢に使ったギル・エヴァンス・オーケストラとの共演第一作目『Miles Ahead』をリリース

このアルバムは大衆向けにマーケティングされたもので
発売当初は「船の上の白人女性」のジャケットでリリースされました

この背景には【人種差別】という大きな問題があります

当時のライナーではマイルスが新人として扱われています

この件に怒ったマイルスはジャケットをマイルス自身の写真に差し替えさせます


フランスに滞在していたマイルスに 最初の渡仏時(1949年)に恋仲になったジュリエット・グレコの仲介で ルイ・マル監督の映画『死刑台のエレベーター』のサウンドトラックのレコーディングがオファーされました

実際は事前にちゃんと準備していたそうですが
マイルスが映画を見ながら即興で録音したという伝説
になっています


ここでも明らかなように
当時のヨーロッパとアメリカにおける人種差別の大きな違いが分かります

モード演法への取組


「『Milestones』が、モード演法で作曲しはじめた最初のレコードだ。特にタイトル曲のMilestonesでは、モードが十分に生かされていた。」

マイルス・デイビス自叙伝

1958/02/04&1958/03/04 アルバム『Milestones』のレコーディングが行われました

♬Sid's Ahead♬ではマイルスとの口論で退室してしまったレッド・ガーランドに変わり(ガーランドが遅刻したという説もある)マイルスがピアノを弾いています


「ニューヨークに帰るとブルーノートと契約したキャノンボール・アダレイのレコーディングが待っていた。奴がオレにも加わってほしいと言うから、友情としてつき合った。『Somethin' Else』というレコードで、なかなか良かった。」

マイルス・デイビス自叙伝

マイルスにとっては1954年以来となるブルーノートでのレコーディングで 1950年代初期(ジャンキー時代)のマイルスを救済したアルフレッド・ライオンへの恩返しのためと言われています

スタンダード曲♬Autumn Leaves♬は名演とされており
ジャズの中でもトップクラスの名盤として評価の高い作品です


1958年7月3日:ニューポート・ジャズ・フェスティバル
<パーソネル>Miles Davis(tp)Cannonball Adderley(as)  John Coltrane(ts) Paul Cambers(b) Jimmy Cobb(ds)
Bill Evans(p)

1958年9月9日:コロンビア主催のニューヨーク、プラザ・ホテルでのパーティー <パーソネル>同上

ビル・エヴァンスがマイルスのグループにもたらした影響は大きく
一段と深みとデリケートな美しいサウンドに進化します
ところが ビル・エヴァンスは 僅か7カ月でグループを脱退します

「ビルがバンドを去る原因になったいくつかの事柄に、オレは本当に腹を立てた。たとえば、バンドにいるたった一人の白人というだけで、何人かの黒人連中がした仕打ちだ。ジャズ界最高のバンドで、ギャラも最高なんだから、黒人のピアニストを雇うべきだなんて考えてる野郎がたくさんいたんだ。もちろん、オレはそんなことにかまっちゃいない。いつだって最高のミュージシャンが欲しいだけだ。黒だろうが白だろうが、青でも赤でも黄でも、なんだっていい。」


私の想像ですが 職場でいえば 

エヴァンスは他業界からヘッドハンティンされてきた「仕事が出来る人」

コルトレーンはエヴァンスの実力を認めながらも新参者がちょっと気に入らなかった

エヴァンスにとっては「居心地の悪い」職場だった?


『Kind of Blue』のレコーディング


レコーディングは コロンビア・レコードのニューヨークの30丁目スタジオで2日間で行われました

【Session1(1959年3月2日)】

スタジオには レギュラーのウィントン・ケリーと4カ月前に解雇されたビル・エヴァンスの二人のピアニストがいます

ジョン・コルトレーンはレコーディング前にマイルスに
グループ脱退の意向を伝えていたとも言われています

そんな異様な緊張感の中でマイルスは普段通りにクール

何を演奏するかを示唆した“草案(sketches)”をメンバーに渡して簡単な打合せをして最初に録音する曲として「Freddie Freeloader」を指定

ピアノはウィントン・ケリー

1発でOK マイルスの指示でウィントンはスタジオから去ります


ピアノはエヴァンスに変わり ここからがモード奏法へのトライアル

「So What」「Blue in Green」を録音 1テイクOK


【Session2(1959年4月22日)】

「All Blues」(1テイクOK) 
「Flamenco Sketches」(2テイク アルバム収録は2テイク目)

5曲全て 事前の熟考や擦り合わせのない 出たとこ勝負のガチセッション


必要なのは『シェアード・リーダーシップ』


『Kind of Blue』の創作現場において
もちろんマイルスはリーダー的な存在ですが指揮者でもありません

いざ演奏が始まれば彼はトランペットの演奏に集中するだけで
他のメンバーに指図などしません


各メンバーはそれぞれ“創造的に逸脱”しながら
インタープレイで他のメンバーに仕掛けたり
感性と技を繰り出し合いながら最高の作品を創造していきます

リーダーは マイルスであり エヴァンスであり 他メンバーである

シェアード・リーダーシップ

これが『知識ビジネス産業』に必要なリーダーシップの形では?

勉強会のポイント


✅ なぜ?マイルスはモード演法に至ったのか?
✅ 当時のアメリカ社会における根深い人種差別問題
✅ イノベーションを起こすリーダーシップとは?

こんな観点も踏まえて 参加者と一緒になって「観て」「聴いて」「感じる」でディスカッションする講座です!

ご参考まで❣



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?