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HipHopアフリカ・バンバータが教えてくれた南アフリカ「ズールー族の精神」

1985年
スティーブン・ヴァン・ザント(スプリングスティーンのEストリートバンドのメンバー)と音楽プロデューサーのアーサー・ベイカーが、南アフリカのアパルトヘイト制度に抗議するためのプロジェクトを始動。

1985年10月
彼らはアルバム「Sun City」をリリース。南アフリカで運営されていた高級リゾート「Sun City」に抗議する歌を収録

1985年11月
タイトルトラック「Sun City」をシングル・リリース


このプロジェクトにマイルス・デイヴィス師匠が参加していたことで
「私がアパルトヘイトに興味を持った」と以前投稿に書いたのですが、、

シングル「Sun City」のMVには、Run-D.M.C.やクール・ハークといったヒップホップ・アーティストが登場しますが、その中で誰よりも”いかつい顔”
アフリカ・バンバータ(Afrika Bambaataa)


ディスコ・ブームでセールス低調の冬の時代にいたジェームス・ブラウン師匠の完全復活のきっかけとなる歴史的シングル『Unity(1984年リリース)』


「お~ アフリカン・バンバータの”Zulu Nation”は、南アフリカのズールー族がベースだったのか、、、」

この”気づき”が南アフリカ共和国探究を始めたもうひとつの理由です。

ズールー族とは、「知識、知恵、理解、自由、正義、平等、平和、団結、愛、尊敬、仕事、楽しみ、否定的なものを肯定的なものに克服する、経済学、数学、科学、人生、真実、事実、信仰」を意味します。 、そして神の一体性」

Universal Zulu NationのWebサイト

1497年、ポルトガルの探検家ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回航し、インドへの航路を開拓したことが、アフリカ大陸へのヨーロッパ勢力の拡大の始まりです。

1652年、オランダ東インド会社によって、現在のケープタウンに補給基地が設立されて、ヨーロッパ人による南アフリカ地域への最初の恒常的な足がかりを築きました。

この基地は、オランダの植民地展開の出発点となり、後にアフリカーンス語を話すボーア人(オランダ系移民)のコミュニティの形成につながりました。


オランダ人の入植は、農業と牧畜を行うために大量の土地を必要とし、先住民族の伝統的な生活様式と衝突します。
初期には貿易を通じて相互の利益のための関係が築かれましたが、徐々にオランダ人はより多くのコントロールを求めるようになり、多くの先住民族は、オランダ人の支配に対して抵抗しました。

これにより、オランダ人は地元の人々を強制労働に従事させることが難しくなり、他の地域から奴隷を輸入する必要性が生じました。

奴隷は主に東アフリカ・マダガスカル・アジアから連れてこられたのです。


17世紀 - 18世紀
オランダ人入植者(ボーア人)と先住民族(コイコイ人など)との間で緊張が高まっていきました。

ナポレオン戦争が勃発すると、イギリスはオランダがフランス革命政府の影響下にあることを懸念しました。
フランスがケープ植民地を利用してインドへの道を脅かすことを防ぐため

1795年:イギリスが初めてケープ植民地を占領
1803年:アミアンの和約により、ケープ植民地が一時的にオランダに返還
1806年:イギリスがケープ植民地を再占領
1814年:パリ条約により、ケープ植民地が正式にイギリス領になる

ケープがイギリス領になった頃、東のナタールにおいては大変動が起こっていました。


ズールー王国

1817年
南部アフリカの一部族であったズールー族のシャカは、軍備の近代化や中央集権体制を進めて、南アフリカの大部分を支配する「ズールー王国」を設立

シャカの軍事戦略は、短槍を中心とした近接戦闘に重点を置き、多くの部族を制圧しました。

King Shaka

ズールー族を特徴付けるいくつかの重要な要素は次の通り。

「強い共同体意識」

ズールー文化では「ウブントゥ(Ubuntu)」という概念が重要です。
これは「私は、他者がいるから存在する」という相互依存の精神を表し、共同体の重要性を強調しています。

「戦士の伝統」

ズールー族は、軍事的な強さと戦士の伝統で知られています。

「豊かな文化と伝統」

伝統的なズールーの「音楽とダンス」は、社会的な行事や儀式で重要な役割を果たし、集団の一体感を表現します。

「伝統的な社会構造」

伝統的なズールー社会は、族長制度に基づいており、族長や長老たちは集団の意思決定において重要な役割を担います。

「社会的責任感と倫理」

共同体内での相互支援と協力は、ズールー社会における生活の基本的部分

これらの精神や概念は、ヒップホップ文化におけるズールー・ネイションの形成に間接的に影響を与えたのでしょう。特に、強い共同体意識、戦士としての勇気と強さ、そして豊かな文化的伝統は、ヒップホップ文化における団結感、抵抗の精神、そしてアイデンティティの表現と共鳴しています。


シャカのリーダーシップの下、ズールー王国は急速に拡大し、南アフリカ地域の勢力図を塗り替えます。


「ムフェカネ」(1815年頃 - 1840年頃)

ズールーの軍事的拡張によって、多くの民族が自らの領土を離れざるを得なくなりました。この一斉移動は、広範囲にわたる社会的混乱を引き起こしました。一部の民族は遠くへ逃れ、新たな領域で国家を築きました。
この混乱は、特にハイフェルト一帯を人もまばらな荒野に変えました。


グレート・トレック(1830年代)

ボーア人がイギリスの支配から逃れ、内陸部への大規模な移動(グレート・トレック)を行います。この結果、内陸部にボーア人の新たな共和国(トランスヴァール共和国、オレンジ自由国)が形成されました。

白人系政府と黒人王国の並立(1830年代 - 1902年)

トランスヴァール共和国、オレンジ自由国(ボーア人による共和国)、ケープ植民地、ナタール植民地(イギリス領)が成立。同時に、ズールー王国を含むいくつかの黒人王国も存在。

ズールー戦争(1879年)

この戦争は、イギリスがズールー王国を完全に支配下に置こうとした結果、発生しました。最終的にイギリスが勝利し、ズールー王国はイギリスの植民地帝国の一部となりました。
ズールー王国の政治的独立は終わり、その権力構造は根底から変化しました。ズールーの領土は分割され、イギリスによる直接統治や、他のヨーロッパ系入植者による支配が行われるようになりました。

ズールー族は文化的同化の圧力に直面します。イギリスの言語、教育、宗教などが導入され、ズールーの伝統的な文化や価値観に影響を与えました。
植民地化はズールー族の伝統的な経済活動にも影響を及ぼし、多くのズールー人が土地を失い、労働市場に参加することを余儀なくされました。


第一次ボーア戦争(1880-1881年)

ボーア人とイギリスの間で初めての大規模な武力衝突が起こる。

第二次ボーア戦争(1899-1902年)
ボーア共和国とイギリスの間でより大規模な戦争が発生。この戦争はイギリスの勝利で終わり、ボーア共和国はイギリス領に組み込まれる。




この時期の出来事を理解することは、南アフリカの複雑な過去と現在を理解する鍵です。

南アフリカとアメリカにおける植民地化の比較


植民地化の性質と範囲

南アフリカの植民地化は、主にオランダとイギリスによって進められ、特定の地域と社会に深く根ざした影響を及ぼしました。
一方、アメリカ大陸の植民地化は、スペイン、ポルトガル、フランス、イギリスなど複数のヨーロッパ国による幅広い影響が見られます。

先住民族との関係の発展

南アフリカでは、先住民族とヨーロッパ人との間に独立した王国や部族が存在し続け、激しい抵抗が行われました。
アメリカ大陸では先住民族がヨーロッパ人による支配下に置かれ、多くの場合、文化の破壊や強制移動に直面しました。

奴隷制度の運用

南アフリカでは、特にオランダの植民地化初期に奴隷制度が重要な役割を果たしましたが、その規模はアメリカ大陸のそれに比べると限定的でした。
アメリカ大陸では奴隷制度が経済の基盤となり、より広範囲にわたり深く根付いていました。


南アフリカとアメリカ新大陸がヨーロッパの拡張主義の一環として共通する要素を持ちつつ、それぞれ異なる地理的、歴史的、社会的文脈によって独自の発展を遂げていたのです。



最後は、人種差別を嫌悪し続けたマイルスの熱い思い、帝王マイルスの素晴らしい演奏を編集することなどできないというスティーブン・ ヴァン・ザントの意向により、ジャズ・ヴァージョンとして曲を再編集した楽曲をお聴きください。

The Struggle Continues (Extra Miles Davis Version)


Miles Davis · Ron Carter · Stanley Jordan · Tony Williams · Herbie Hancock


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