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ビ・バップ革命~ハード・バップに学ぶイノベーション思考講座
今まで誰も挑戦しなかった新しい行動を起こそうとすると最初は多くの人が冷ややかな目で眺めてバカにします
しかし、その人物を追随する人が増えていくと今までマイナーだったことが一気にメジャーとなって一大ムーブメントになり多くの人を巻き込みます
ジャズは『個人の音楽であると同時に集団の音楽』 譜面に書かれている通りに演奏されるのでなく 個人の創造性『インプロヴィゼーション』を基本としていますが『協演』の重要性を認識した上での集団としての創造性もなければジャズという音楽は成立しません
イノベーション思考を一緒に学ぶ
Jazz&HipHop in Business Program
先日の勉強会のダイジェストです
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『ビ・バップ』の誕生は【西洋音楽史上の大革命】
従来は合わないとされていた非和声音も「音楽理論上使える音を全部使ってみよう」という実験精神で歴史上初めて『即興演奏』の可能性を大幅に解放しました
今の時代 こんな大胆な発想が求められます
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菊地成孔氏は著書
『東京大学のアルバート・アイラー—東大ジャズ講義録・歴史編』において
『ビ・バップ』の兆候を「音楽のスポーツ化」と呼んでいます
同じ理論(ルール)を共有して初めて「競争」が成立するのでわけです
『ビ・バップ』という新しいルールによって ジャズメンの演奏は「より速く・より複雑」になっていき 個人のテクニックを極限まで表現できて競い合う演奏スタイルに変わっていきました
マイルス・デイヴィスは
チャーリー・パーカーがカマリロ病院から出てきたあとのことを
次のように自伝で回想しています
『バードの創造性と音楽的アイデアには限りがなかった。いくらでもいろんなスタイルでやれたし、同じアイデアを繰り返すなんてこともなかった。彼は毎晩、リズムセクションを大慌てさせた。』
あまりにもイマジネーションがずば抜けて演奏中にどんどんインプロビゼーションが飛躍していくのでリズムセクションが付いていけない状況に陥ることが多かったという
しかしディジー・ガレスピーだけは違っていたようです
『バードと対等に渡り合えたのは、たぶんディズ一人だけだったろう。』
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1947年2月 退院後再びダイアルでセッション
バードが用意した曲が『Relaxin' at Camarillo』(ハワード・マギーがパート譜を作成)
リハーサルの際 バード以外は譜面を見ながら練習を始めました
この光景を観たバードは
「君たちが演奏できるようになったら 呼びに来てくれ」
と告げて車の中で酒を飲みながら待ちました
全員が演奏できるようになった時には
ボトルは空でバードは酔いつぶれていました
音楽・絵画・演劇や文学などの『表現』は娯楽として大衆に楽しまれているうちは身近な存在として愛されます
しかし、革新的な芸術表現へと向かえば向かうほど大衆から離れていき
同じ世界の表現者には強く支持されますが
表現をする側でない一般大衆には背を向けられます
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「『クールの誕生』は、オレが思うに、バードとディズの音楽に対する反動として支持され、コレクターズ・アイテムになったみたいだ。」
アドリブを重視しないアンサンブル重視の「クール」な楽曲
ノネット(9重奏団)を率いて 作り込まれた音楽を目指した作品(ホルンやチューバなどジャズでは珍しい楽器が入っている)
バードの『ビ・バップ』とは真逆のアプローチ
『クール・ジャズ』は1950年代前半から西海岸で
白人を中心に演奏された「明るく健康的なアレンジを多用するジャズ」
『ウエストコースト・ジャズ』
としてのムーブメントになります
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当時『Birth of Cool』が評価されなかった理由?
キャピトル社がアルバム『Birth of Cool』としてリリースしたのは録音7年後の1957年です
1950年代初頭 バードは絶大な人気と知名度がありましたが マイルスは黒人社会ではそれなり有名でしたが スーパー・スターではありません
✅「レイス・レコード」というカテゴリーで白人社会には届かなかった
バードと真逆のアンサンブル重視の「クール」な楽曲は
黒人社会では『西洋音楽や白人社会への嫌悪感』もあってウケなかった
『ビ・バップ』革命とは何だったのか?
『ビ・バップ』革命は
既存の古い音楽様式によって刷り込まれた制限からの逸脱した「表現の自由」を表した大革命
『ビ・バップ』は「スウィング・ミュージック」へのアンチテーゼ
マイルス・デイヴィスは
バードから音楽に存する芸術表現の追求を学んで具現化した
音楽表現者として類い希な天才です
バードと大きく違ったことは
『大衆性』を忘れなかったところにある気がします
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『ハード・バップ』は 黒人主導で創造してきた『ジャズ』が
「大衆性」と「芸術性」を併せ持つ『鑑賞芸術』として到達点のひとつです
ハード・バップ誕生を高らかに宣言したモダン・ジャズを語る上で絶対に外すことが出来ないライブ・アルバムの最高峰
A Night at Birdland With Art Blakey Quintet (Blue Note1521/1522)
1954年2月21日:バードランドで録音されました
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マイルス伝説の始まり
1955年7月17日 マイルス・デイヴィスのニューポート・ジャズ・フェスティバルに飛び入り参加して伝説的名演を繰り広げます
「〈ラウンド・ミッドナイト〉をやったんだが、オレがミュートで吹くと、みんな大騒ぎになった。あれは、すごかった。ものすごく長いスタンディング・オベーションを受けたんだ。ステージを降りると王様のように見られ、レコーディングの話を持っていろんな奴が押しかけてきた。」
その後 コロンビア社からの契約オファーを受けます
「1955年10月に『カフェ・ボヘミア』に出ている時に、オレ達はコロンビアのためのレコーディングに入った。だがそれは、プレスティッジとの取り決めがあったから、1956年5月まで出せなかった。」
1955年10月26日・1956年6月5日&9月10日
コロンビアでの一作目『Round About Midnight』を録音します
マイルスは プレスティッジとの契約解消のため
1955年11月16日『New Miles Davis Quintet』録音
1956年5月11日と1956年10月26日の2日間で「マラソン・セッション」と呼ばれている4枚のアルバム(『Cookin'』『Relaxin'』『Workin'』『Steamin'』)を制作します
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勉強会のポイント
✅ なぜ?ジャズは進化し続けるのか?
✅ 当時のアメリカ社会?
✅ 深く根付いた人種差別問題
こんな観点も踏まえて
参加者と一緒になって「観て」「聴いて」「感じる」でディスカッションする講座です!
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