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【ハード・バップ前夜】「芸術音楽」と「大衆音楽」そして白人社会の壁

歴史的にみると そもそも『絵画』は説明図で「伝達手段」 

『音楽』は余興や娯楽で祭事の素材の一つであったと考えられます

それらの「表現方法」は 生活に根付いた必然的なものだったのですが『絵画』『音楽』は【文化】となって『鑑賞の対象』として『芸術』となっていきます

✅ 『音楽』をどうやって伝えていくのか?
✅ テクノロジー進化は『音楽産業』にどんな変化を与えたのか?

1949年代終わり~1950年代初頭はジャズにとって大きな分岐点です

Birth of Cool


1944年9月にニューヨークにやって来たマイルス・デイヴィスは 1945年 ジュリアード音楽院を中退して チャーリー・パーカー(以下「バード」と略す)の下で(1年間ルームメイト)当時最先端の『ビ・バップ』にどっぷり漬かっていました

1948年末 マイルスはバードのコンボ脱退して『クール誕生(Birth of Cool)』の制作に取り掛かります(録音は1949 年 1 月 21 日・ 4 月 22 日・1950 年 3 月 9 日)

「あの頃のオレは、ギル・エバンスのアパートにしょっちゅう行って、彼がする音楽の話を聞いていた。オレ達は、初めから気が合った。彼の音楽的アイデアは、すぐにピンときたし、彼にしてもそうだった。オレ達の間では、人種の違いは問題じゃなかった。いつも、音楽がすべてだった。」(引用:マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ )

ノネット(9重奏団)を率いて ジャズでは珍しいホルンやチューバなどの楽器が入った作り込まれた音楽を目指した作品

アドリブを重視しないアンサンブル重視の「クール」な楽曲は バードの「ホット」なビバップとは真逆のアプローチ

メンバーが『白人と黒人の混成編成』は当時としては珍しいことです 


パリ・フェスティヴァル・インターナショナル


1949年5月 マイルスは パリで行われた国際ジャズ・フェスティバルに参加して初の海外公演をビバップ・スタイルで行いました(ラジオ番組の録音のため音質が良くないです)

パリではビ・バップの人気が高く ジャズは文化として評価されていて マイルスは大歓迎を受けスターとして扱われ サルトルやピカソに会ったり 歌手のジュリエット・グレコと恋に落ちたりといった大きな経験をします

「オレにとっては初めての海外旅行で、物事の見方を完全に変えられてしまった。パリという街も、オレに対する待遇も気に入った。」(引用:マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ )


帰国後マイルスは アメリカの『人種差別』『ジャズに対する評価の低さ』とパリの現状とのギャップに心を痛め 薬物中毒に陥いっていきます 

1949 年4月にリリースされた2枚組シングル『Israel』『Boplicity』は評判になることはなく むしろ逆に不評だったようです

「そのうち、クスリをやり続けるために、売春婦から金を受け取るようになった。自分がしていることがそれだと気づく前に、オレはヒモになりはじめていた。オレは、プロフェッショナル・ジャンキーだった。クスリが生きる目的の全てになって、仕事でさえも、クスリが手に入れやすいかどうかで決めていた。」(引用:マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ)


当時『Birth of Cool』が評価されなかった理由?


前述の通りキャピトル社がアルバム『Birth of Cool』としてリリースしたのは録音7年後1957年です

1950年代初頭 バードは絶大な人気と知名度がありましたが マイルスは黒人社会ではそれなり有名でしたが スーパー・スターではありません

✅「レイス・レコード」というカテゴリーで白人社会には届かなかった 

バードと真逆のアンサンブル重視の「クール」な楽曲は 黒人社会では『西洋音楽や白人社会への嫌悪感』もあってウケなかった

結果的には 白人主導のウエストコースト・ジャズ・ムーブメントに影響を与えましたが


テクノロジーの進化は音楽業界に大きな変化をもたらす


当時のレコードは『78回転』シングル盤【SP(Standard Play)】レコードで 収録時間は「10インチ (25cm) で3分」「12インチ (30cm) で5分」
材質はシェラック(樹脂)製で割れやすいものでした(1963年に生産終了)

1948年6月:米コロンビアから直径12インチ (30cm) 『33回転』収録時間20分~30分の長時間録音が可能となった 素材がポリ塩化ビニールで丈夫で薄く軽くなった【LP (long play) 】盤を発表します

1949年:米RCAビクターが7インチ『45回転 』収録時間5~8分の【EP(extended play)】を発売(ドーナツ盤とも呼ばれています)


マイルスは 直ぐにクール・ジャズ路線から軌道修正

リズムの細分化実験を行った『ハード・バップ』の原型を築いたとされる作品『Dig(録音:1951/10/05)』を制作します

「この新技術がもたらす自由な可能性に興奮していた。それまでの、お決まりの三分間の演奏には飽き飽きしていたんだ。大急ぎでソロを始めて終わらさなくちゃならないし、本当に自由なソロを取るスペースなんてなかったからだ。」(マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ)


『Charlie Parker With Strings』は4つのジャケット


1949年11月 バードはノーマン・グランツに「ストリングスを使いたい」と懇願して NBC交響楽団 ピッツバーグ交響楽団 ミネソタ管弦楽団の楽団員とのレコーディングを行います

『Charlie Parker With Strings』は 最初クレフ・レコードから2枚のアルバムとしてリリースされました

1950年『Charlie Parker With Strings』は好評に応えて第2弾が録音されリリースされます(3種類のメディアでリリース)

さらにその後 12インチLP盤が登場し『Charlie Parker With Strings』は過去の全曲が1枚にまとめられます

そして その後日本盤としてリリース『Charlie Parker With Strings』は?


娯楽音楽だったジャズに芸術性を付加させた


バードの革新的な『ビ・バップ』は 他ミュージシャンも同じように演奏できるものでもなく オーディエンスが踊れるような音楽ではありません

1949年後半には 多くのジャズ・ミュージシャンもバードの演奏を真似するだけで アドリブも同じことの繰り返しで 停滞感が漂っていました


ビ・バップの中心人物であるバードが そもそも「ストリングスとの共演」を行った理由は次の3つが考えられます

① 商業的に露出を増やしたかった?
② クラシック音楽(西洋音楽)への憧れがあった?
③ レコード会社(マーキュリー)の方向性と一致していた?


しかし バードがやりたかったことは

ジャズを観客を楽しませる娯楽から 自己を表現するための手段としての芸術性を付加させて 白人社会にもジャズを認めてもらいたい思い

だったのではないか?と私は思います


バードは 1948年のインタビュー記事で クラシック音楽(シェーンベルク ドビュッシー ストラヴィンスキー ベートーベン バッハなど)の楽曲への感動を熱く語っています

そして バードは アメリカで演奏して経済面を充実させた後は フランスの音楽アカデミーに通ってクラシック音楽と作曲を学ぶことを真剣に考えていたというエピソードもあります(この夢を叶える前に亡くなりました)



マイルスのハード・バップへの軌道修正


『音楽』や『絵画』そして『演劇』『文学』は 娯楽として大衆に楽しまれているうちは身近な存在として親しみやすいです

しかし アーティストの表現方法が 独自の発想で何かを作り出す「独創力」新しいものを生み出す「創造力」を発揮して『芸術表現』が高まるほど 大衆には理解し難くなって背を向けられます


マイルスの『クールの誕生』の挑戦は 難解なビバップから距離を置いて『ジャズ』から離れていく大衆に引き戻そうと思ったからでしょう


しかし当時のマイルスにはバードほどのカリスマではありません

『白人社会』を意識したことで『黒人社会』から背を向けられては元も子もありません 


マイルスが クール・ジャズ路線から軌道修正して『ハード・バップ』路線に切り替えたのは よりライブでの演奏に近い感覚でレコーディングできるようになった【LP】というメディアの進化もあったと思います

「オレは、サウンドが自分自身のものになりつつあったから『ディグ』は大いに気に入った。……新しい長時間演奏のフォーマットは、オレのために発明されたようなものだった。」( マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ)


【ハード・バップ】は『ビ・バップ』の流れをベースにした大衆にも受け入れやすい『芸術音楽』となったか?



次号以降へ続く



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