祖父の古傷が教えてくれた名もなき兵士たちの戦争
はじめに
お盆前になるたびに戦争関連のニュースがあふれ出す。長年、僕はそれらを何気なく聞き流してきた。しかし、取材ライター・おおしまはなさんが執筆されたnoteとの出会いが、僕のなにかを変えた。
おおしまはなさんのnoteを読み終えて思い出したのは、僕が幼き日に祖父から聞かさせた戦争体験談。僕もnoteにまとめて残したいと強く感じた。
祖父が命を賭けた戦争体験を伝えたい。
あの時代の戦争はなんだったのか。この記事を読んでくれているあなたにとって、改めて考えるきっかけになれば幸いである。
きっかけは姉の夏休みの宿題
今から30年前の夏休みの出来事。当時小学5年生の僕は盆休みのため、祖父母の家に帰省していた。祖父や祖母に遊んでもらおうと、部屋まで続く長い廊下をダダダダっと駆け抜ける。
しかし、すでに先客がいた。なんと姉が陣取っているではないか。
どうやら中学校の宿題で、祖父母から戦争体験を聞いてくるというものがあるらしい。僕は内心つまらなかった。そもそも戦争の話なんて興味がないし、姉の宿題のために遊んでもらえないとは…。
とはいえ一人でいるのも退屈するので、渋々姉の隣で祖父の戦争体験を聞くことにした。
左肩の傷痕
今まで何度も祖父の家には遊びに行っているが、戦争の話なんて一度も聞いたことがない。姉の宿題のためなんかに戦争の話なんかするのだろうかと半信半疑だった。
しかし、真面目な祖父は「わかった」といい、上半身着ていた肌着をおもむろに脱ぎ出した。
祖父が指さした左肩には、確かに生々しい傷痕が残っていた。祖父の話を渋々聞いていた僕の背筋は一瞬で凍りつく。小学生ながら、「これはちゃんと、じいちゃんの話を聞かなくちゃ」と理解した。
何よりも、祖父の真剣な表情が物語っていた。祖父の左肩の傷痕を見たおかげで、30年経った今でも鮮明に僕の記憶として残っている。
以下、祖父から聞いた話と想いを回顧していく。
赤紙と出征
1941年(昭和16年)12月8日。日本軍によるハワイの真珠湾攻撃により※大東亜戦争が開戦。最初こそ日本軍の快進撃が続いたが、次第に戦況が劣勢に傾く。(※戦時中の日本国内での呼び方)
開戦当時、祖父は23歳。地元の郵便局員として働いていた。そして1944年(昭和19年)10月、米軍が日本占領下のフィリピン・レイテ島に上陸したことにより、ついに祖父の元にも赤紙(召集令状)が届いた。
家族をはじめ、村中の人たちが駅に集まり拍手喝采のもと「バンザーイ」と三唱。誰もが感極まり、祖父や他にも召集された人たちを見送る。
軍人になってお国のためにすべてを捧げる。
当時はこれ以上ない価値観。しかし、祖父は内心そう思いきれていなかった。
武者ぶるいで震える膝を堪えるのに、必死だったと祖父は言う。
祖父が向かったフィリピンは大東亜戦争における激戦地の一つ。日本だけでも40万人を超える戦死者がでた。
通信兵として
激戦地のフィリピンで、祖父が生き残れた要因は二つある。一つは体が丈夫でなかったため最前線に立てなかった。もう一つは機械いじりが好きだったことだ。これにより、祖父は通信兵として重用された。
しかし、通信兵としてキャッチする情報は日本軍の劣勢を示すものばかりだった。
死を覚悟した瞬間
質・量ともに勝る米軍の攻勢により、日本軍は次第に追い込まれていった。ついに弾薬も尽き、撤退の指令が出された。無傷の兵士、負傷者など様々な状況の人たちが必死に撤退を開始した。
その最中、突如として祖父の左肩に激痛が走った。流れ弾が祖父の左肩をかすめたのだ。その瞬間、祖父は死を覚悟したという。しかし、幸運にも致命傷には至らず、一命を取り留めた。
ジャングルを彷徨い続けた終わらない戦争
1945年(昭和20年)8月15日、昭和天皇の玉音放送により終戦が告げられた。しかし、フィリピンのジャングルにいた祖父たちにはその知らせが届かない。
戦争が終わった後も約2ヶ月間、ジャングルを逃げ回る生活が続いた。その間、祖父たちは生きるためにあらゆる手段を講じる。
2週間もの間、川の中に身を潜めていたこともあったという。飢えをしのぐためには、動いているものは何でも食べた。トカゲやカエルも躊躇なく口にしたそうだ。
もはや「お国のために死ぬ」などという考えは微塵もなく、ただ生きることだけを考えていた。祖父は「死んでよかった命なんて一つとしてない」と語っていた。
命がけの投降
祖父が終戦を知ったのは、米軍が空から撒いたビラを読んだ時だった。「日本、ポツダム宣言受諾。敗戦スル」という文字を目にし、戦争の終結を知った。なかには信じられないと感情を露わにする仲間もいたが、通信兵として日本軍の劣勢を知っていた祖父は、ビラの内容を素直に信じた。
このまま彷徨っていても飢え死にするだけだと悟り、イチかバチかの覚悟で米軍に投降することを決意した。
勇気を出して米軍の陣地に向かうと、そこではすでに米軍が復興作業をしていた。
米軍の技術力に驚愕
米軍の陣地に到着した祖父たちの目の前に、かつて見たこともない光景が広がっていた。戦車やトラックさらにジープが所狭しと並び、その数と規模に圧倒された。
そんな中、一台のジープがぬかるみにはまっているのを見かけた。真面目な祖父たちは咄嗟に駆け寄り、押し出そうとした。しかし、ニヤニヤと笑う米兵に制止される。「黙って見てろ」と言わんばかりの表情だ。
次の瞬間、ジープは轟音とともに勢いよくぬかるみから脱出した。祖父は目を疑った。
言葉を失った祖父の背後で、さらなる驚きが待っていた。
土砂を山積みにしたトラックが近づいてきた。そして突如、ダンプカーの荷台が持ち上がり始める。「ドドドドド」という音とともに、大量の土砂が一気に地面に降り注いだ。荷台が自在に動くなど、祖父は夢にも思わなかったという。
しばらくの間、祖父はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。そして、思わず本音が漏れる。
最新鋭の車両や装備を目の当たりにし、国力の圧倒的な差を痛感した祖父。その瞬間、敗戦に納得せざるを得なかったのだ。この体験は祖父の心に深く刻まれたのだ。「新しいもの好き」という人生観にも大きな影響を与えることになる。
手厚い捕虜生活
意外にも、米兵たちは捕虜となった祖父たちに対して手厚い対応をしてくれたのだ。食事も与えられ、祖父は久しぶりに腹いっぱい食べることができた。そこから祖父は、捕虜の中でも特に模範的な態度で米軍の活動を手伝い、米兵たちに気に入られたという。
「※ジャップがこんなに真面目な人種だとは知らなかった」と言われるほどだった。約3ヶ月の捕虜生活を経て、祖父はついに帰国の機会を得た。
(※日本人を侮蔑した当時の差別用語)
帰国と平和な日々
米軍の引き揚げ船に乗り、祖父は無事に帰国した。戦後は祖母と結婚し、3人の子にも恵まれ、郵便局員として復帰。定年まで真面目に働き続けた。
どんな想いで戦争の時代を生き抜いたかは、今となっては知る由もない。しかし、存命中は子や孫のためにと事細かく戦争体験を語ってくれた。左肩の傷痕が戦争の悲惨さを生々しく知らしめていた。
ブロッコリー事件
僕が幼い頃、祖父はどんなときも優しかった。母なら絶対に買ってくれないロボットのおもちゃを僕にプレゼントしてくれたり、家に遊びに行くと畑に連れて行ってくれたりもした。
しかし、たった一度だけ祖父に激怒されたことがある。僕が祖父の家に泊まりに行ったときのこと。
大嫌いなブロッコリーが食卓に上がったのだ。なんとも母が恨めしい。
「まあいい、いつも通り母たちの目を盗んで、こっそりとブロッコリーを捨ててやろう」としたときだった。
「何してるんや?」
祖父の声に一瞬ビクッとするも、事情を説明した。
その瞬間、祖父の表情が赤鬼に豹変した。僕はこのとき初めて、鬼が実在すると知った。死ぬか生きるかの瀬戸際で、何でも食べた経験を持つ祖父にとって、食べ物を粗末にする行為は絶対に許せなかったのだろう。
おわりに
祖父の戦争体験は、平和の尊さを教えてくれた。戦争を体験した方も、すでに90歳近くと高齢化している。戦争を知らない世代が増えるなか、語り継ぐことの難しさを痛感する。
それでも戦争の悲惨さを忘れてはいけない。平和な世の中を守り続けることが、祖父たちの遺志でありライターとして僕の役目だと思っている。
このnoteを読んだあなたにとっても、先人たちが乗り越えた戦争を語り継ぐきっかけになればと願う。