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広島・平和記念資料館を訪れて

「お母さん、怖いよ。早くここから出たい」

小3の次男が私の腕にしがみつきながら、不安そうな顔でつぶやく。
大人の私でも、目の前の展示物を直視するのが苦しくなるほどだった。
私たちがいるのは、広島にある平和記念資料館である。

今年、私たち一家は、7月20日から旅行へ出かけた。
香川→高知→愛媛→広島の順に回った。
香川から広島の午前(厳島神社)までは、とにかく楽しい毎日だったが、最終日は長男のリクエストにより平和記念資料館へ行くことに。

そもそもなぜ平和記念資料館へ行くことになったのか。
実は、旅の当初では、全く予定に入れていなかった。
だから厳島神社へ行ったら、家に帰るつもりでいたのだ。

最終日の宿は広島市内のホテルだった。
部屋の窓からは、原爆ドームがぼんやりと見えた。
「あれが原爆ドームだよ」
私がカーテンを開けてドームのある方向に指を差すと、子どもたちはふーんと興味なさげに応えた。
戦争を知らない世代だ。
体験した人の話を聞いたこともない。
当然の反応だろう。そう思っていた。

ところが翌日、厳島神社の見学を終えると、長男が「平和記念資料館へ行ってみたい」と言い出した。
どうやら、原爆ドームのことが少し気になっていたらしい。
そこで駅の近くでもらったフリーパンフレットを見て、原爆ドームと平和記念資料館のことを知ったとのこと。
広島へ来られることはそうそうないし、一度行ってみようか、ということになった。

改修工事前(2019年)よりも、表現がマイルドになったと噂を聞いていた。
以前は、腕から皮膚が垂れ下がった人形があり、初めて見た時は息を詰まらせたものだ。
それがなくなったと聞いた。

入館すると丸く広い部屋があり、壁には廃墟になった広島市内の様子が一面に描かれていた。
部屋の真ん中には、原爆投下される前の広島市内がCGで映し出されている。
時間経過とともに、風景が変わっていく。
最初は建物がたくさんあり、賑やかだった当時の広島の様子が伺える。
そして1949年8月6日、そこに原爆が落とされる。
一瞬で何もかもが吹き飛び、なくなった。

子どもたちは何も言わずに見つめていた。
いや、何も言えなかったのかもしれない。

ここから先へ進むと「小さなお子さんには刺激が強いかもしれません」と案内があった。
ここではまだ、子どもたちも怖がる様子はなかったが、足を進めるにつれて、表情が変わっていく。

背中にやけどを負った人を治療している写真。
刺さったガラスを取り除く写真。
防火用水にたくさんの人が頭を突っ込む絵。
熱で折れ曲がった鉄骨。
原爆の強い光によって、人間の影が焼きついた階段。
8時15分で止まった時計。
いたる所が破れている服の展示。
亡くなった母親にしがみついて、泣き叫ぶ幼児の様子。
子どもの意識がなくなり、半狂乱で叫ぶ母親の様子。

どれも現実で起きたこととは、信じたくないものばかりだった。
展示品を見ていると、込み上げてくるものがあったが、必死に堪えた。
気がつくと、私の手を握る次男の手が汗ばんでいる。
そして、冒頭の言葉をつぶやいた。

小学生には、衝撃が強すぎたかもしれない。
長男はというと、少し離れたところで一つ一つの展示品をまじまじと見ている。
何か感じたものはあるかと聞きたくなったが、やめておいた。
聞くのは野暮というものよね。

実は私にとって、今回の平和記念資料館は3回目である。
3回目とはいえ、慣れているわけではない。
まわっている間、ずっと、酸素ボンベも付けずに深海の中を泳ぎ回るような、息苦しさがあった。
ズーンと重い感情が、心の奥底で常に付きまとっているかんじ。
一歩進むごとに、足取りが重くなっていった。

原爆によって、8月6日〜12月末の間で、14万人の人が亡くなったそうだ。
そんな中で、無事に生き延びることができたらうれしい、よかったなどの安堵の感情しか沸かないだろうと思っていたが、生き残った人の中には、罪悪感を抱えながら生き続けた人も少なくないと言う。
家族や友達が亡くなって、自分だけ助かったことに対する罪悪感なのだろう。
生き延びても、これまでと同じようには生きられなかったということだ。

出口付近のパネルには、絶望と希望が入り混じった写真が飾られている。
戦争の愚かさや虚しさと、市井の人々の強さやたくましさが対比されているように感じた。
人間は、強い。そんなメッセージが込められているのかな、と解釈した。

今年もまもなく8月6日がやってくる。
一年過ぎるごとに、原爆が投下された日から遠ざかっていく。
でも、私自身、平和記念資料館を訪れた以上、あの日のことを決して忘れてはいけないと思うのだ。

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