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【歴史概要63】外交革命・三部会・フランス革命勃発・人権宣言

①ルイ15世の時代はオーストリア継承戦争や七年戦争があったが成果はほとんどなく新大陸の植民地を失い財政悪化が進行していった。

②外交上の変化は16世紀以来宿敵であったハプスブルク家と関係を改善した事である。これが外交革命である。ルイ16世とマリー・アントワネットの結婚はその一環である。

③ルイ16世政権では重農主義者のテュルゴーやスイスの銀行家ネッケルなどが改革に取り組み特権身分に課税するという提案をした。

④これに第1身分(聖職者)、第2身分(貴族)が反対し王権に対抗するために三部会の招集を要求した。

⑤こうしてルイ16世は1788年に三部会の開催を決定した。1789年5月5日に1615年以来の三部会をヴェルサイユで行った。この時に第1身分・第2身分で約300名、第3身分で約600人集まった。

⑥ここで問題となったのは議決方法であった。特権階級では身分別の裁決を主張したので全体の投票を要求した第3身分が反発した。審議は行われず三部会そのものが成立しなかった。

⑦第3身分と開明派の第1・第2身分の議員が宮殿の球戯場(テニスコート)で集まり国民議会の結成を宣言した。

⑧6月20日に憲法制定まで国民議会を解散しない事を宣言し国王はそれを認めた。これが球戯場の誓いである。国民議会は憲法制定国民議会と改称された。

⑨この動きに対して保守勢力は軍隊を動かし威嚇した。パリの民衆は危機感を持ち7月14日バスティーユ監獄を襲撃した。

この時の囚人は10人ほどであり市民はここで奪った武器で武装、精鋭化した。

⑩パリ市では新市長の選出など改革を行ったがパリの騒乱はフランス中に伝えられ、全土で農民たちが領主や高利貸しの館などを襲撃した。

⑪この騒動は国民議会にも衝撃を与え、8月4日には封建的特権の廃止が宣言された。領主裁判権や1/10の税(収穫物の1/10を教会に納める税)など前近代的な制度が廃止された。封建地代は有償だったので土地は農民の手には入らなかった。

⑫8月26日には人権宣言(人間と市民の権利の宣言)が採択された。こうしてフランス革命が目指す理想が明らかにされた。ロック、モンテスキュー、ルソーといった啓蒙思想を前提に人間の自由、法の下での平等、圧政への抵抗権、三権分立、主権在民、言論の自由、所有権の不可侵など17条にまとめられている。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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