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公共社会の敵はファンです!

ファンは多様性の一環として包摂する必要はない。ファンは社会のゴミであり何の役にも立たない。

まだ何の役にも立たないのならば全然良い。しかし自分たちは「〇〇の役に立っているのだ」と妄信するのがこの連中だ。

だから下らないのだ。公共保持ベクトルと逆向きに推し活にコミットし始める。

「僕は〇〇さんを応援しています」
「私は〇〇君に100万円つぎ込みました」
「〇〇先生にお会いして人生が劇的に変わりましたー」

こういう連中が公共社会の敵である。
社会にとっての有益さは永遠の0である。

ファンになるのなら三無主義(無気力・無関心・無責任)や四無主義(無気力・無責任・無関心・無感動)の方がよほどリアリストである。

「推し活する事が生き甲斐だから良いだろ」と考える人は単に間抜けであろう。推し活などすればするほどセクトが増えて社会分断が広がるのである。つまり反公共活動なんですね。

またそんな事をしなくても生きていけるのが通常の公共感覚でありそんなものを生活の軸にしている時点でお里が知れるわけである。

Qアノンや神真都Qだって推し活動である。ジャニオタや宝塚オタや声優オタも推し活動である。宇宙銀行に徳を預けるのも神社仏閣巡りをしているスピも推し活動である。

ポイントはこの連中は「悪い事をしている」実感がないという事だ。

むしろ自分たちは「良い事をしている」という感覚と自己顕示欲が直結している。

キャバレーに奢侈品をあげる常連客と同じマインドである。共通するのは香ばしい田舎臭さだ。

それは半グレや893より質が悪いと云える。半グレや893は居直る事はあってもどう考えても悪い事をしているという自負があるだろう。

しかしファンというのはこういう自覚がなくセクト化に超積極的である。

学歴厨も資格厨も業界厨も右翼もマルチもカルトも自分たちだけは救われために努力しながら分断を加速化させるのである。そして権威に乗っかり選民応援マインドを社会善と誤認させる。それがファンの悪質性なのだ。

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