世界から見た自分

 最近、周りを見て、フツウに生活してるな、自然体でありのままの自分を生きてるな、と思うことが多かった。無理せずに、自分らしく。それは、社会的に地位があったり、活躍している人ほどそういう振る舞いをしている気がする。とても素敵で、キラキラ輝いている。そして私はそれをすごいな、いいなと羨望して見ているのだ。少しの嫉妬も交えつつ。

 基本的に主観で生きている私は冷静に人を見ることをしてこなかったため、こう思えたことは進歩している気がする。状況を整理して分類して自分の理想を組み立て、近づける素材に出来ている気がする。もっと具体的にしていかないといけないのだろうけど。

 以前の私は羨望の眼差しでじっと見て、嫉妬に燃えて、そのように出来ない自分を否定する連続で、自尊心がないのにプライドだけは高かった。今もまだその傾向はある。どうにかしないといけない、と思いつつ、思考をうまく転換出来なかった。自分の中で考え続けながら、浮き沈みを繰り返していた。

 そんな昨今、留学していた先輩Aが一時帰国し、他の先輩Bと共に3人で会う機会があった。なんでもサバサバ話し、言いにくいことや辛辣なことでもズバッと言える彼女たちが羨ましかった。

 話の流れで共に過ごした大学時代の話になり、「あの頃は本当に嫌だったもの。専攻で勉強してたけど、今は同じ分野の中でも別のジャンルのほうが好き」と当時のことを振り返って先輩Bが言った。頑張った自分を認めつつ、ずっと勉強してきたことをバッサリと嫌いと言い放った彼女は、とても生き生きしていた。

 カフェでじっくり先輩Aの留学の話を聞くと、日本との違いがよくわかった。国、市、私立か公立か等や学部によって、留学事情が違うであろうが、私の専門分野においては入試の内容や入学基準から違ったし、カリキュラムの進み方も違った。日本が如何にマニュアル化されているか思い知った。井の中の蛙は大海を知らないのである。本当に熱意がないと、情熱がないとついて行けないような世界だった。私は留学には向いていなかった。寧ろ、日本だから大学を卒業できたのかもしれないと思った。

 大学を卒業したものの、在学中落ちこぼれで、専門分野においてコンプレックスだらけの自分がいた。未だに自分を認められていない。しかし、まだ勉強していきたいと思っている自分もいた。だが、「こうしなければならない」という固定観念や、自己卑下がその意欲を邪魔していることに薄々気付いていて、これをどうにかしないと気持ちが前に向かないことは明白だった。

 それが、今回の先輩Aの話で少し変われる気がした。これは変わりたいと思う私の決意表明のようなものなのかもしれない。もっと視野を広く、ありのままに生きること、素直になること、無理をしないこと…今まで同じところをグルグルと回っていたけれど、案外シンプルなのかもしれない。

自分が心地よいことを基準に考え行動する

家に帰って考えていたら、ふと、頭に浮かんだ。今まで他人に相談したり、カウンセリングに行き、自分をどうにか変えるために努力し、考え続けていた。アドバイスや話を聞いて、確かにそうだなと理解は出来るけれど、それを自分に当てはめられず、自分のことなのに他人事のように思えて、納得出来なかった。この考え方はそんな主観の強い私にはとてもわかりやすい考え方で、初めて納得出来るものだった。しっくりきたのがわかった。これから、実践である。変わることが出来るか不安もあるものの、ドキドキわくわくしている自分もいる。キラキラ輝く自分になるために、素直な自分になるために、自分を大切に、好きになれるように、一歩ずつ前進していけたらと思う。

 いつの日か、フツウに生活している人になるために。

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