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現代アート界への皮肉たっぷり社会風刺映画『ザ・スクエア 思いやりの聖域』感想

ザ・スクエア 思いやりの聖域(2017)
原題 The Square  
監督/脚本 リューベン·オストルン ド

全編皮肉、振り返ってスクエア(スクリーン、TV、タブレット、スマホ)越しにこれを観ていたこちら側も盛大に皮肉をぶっ被る話

あらすじ

現代美術館のチーフキュレーター、クリスティアン。次の展覧会の目玉である「スクエア(地面に正方形のエリアを区切っただけ)」は"すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる"がテーマ、彼自身もそれに恥じない人間であるとの自負がある
しかしスリにあったことからおかしなことになってゆくブラックコメディ


初っ端から「スクエア」のために、銅像を移動させようとして破壊してしまうという非常に劇中の当事者も観てるこちらも気詰まりな場面(どうすんだあれ……)の居た堪れない気持ちを味わう

しかしこれから先、この居た堪れなさの波状攻撃にあう151分
正直長い
アベマリアが繰り返し流れるのもしんどい(睡魔)

作品のテーマというか意図するところは察することができる
登場するアート界のハイソサエティな人達(クリスティアン含むそれぞれエピソードを背負ったモブも)の保身ぶりを嘲っても笑っても、それは結局自分へのブーメランになって返ってくる
現代アートとその周辺を描いているが
そのまなざしはそれ以外の人達も除外していない、つまりは人の振り見て我が振り直せ

「スクエア」は関係性の美学と呼ばれるもの
しかし他者への無関心は日常風景
現代社会の欺瞞と虚飾
有象無象がネットでフリーライド出来る時代、誰も彼もが正義の側に立って悪しき側へ正義の鉄槌を"安全圏"から振り下ろしたがる
益がなければ無関係を貫くのに(トラブルを抱えてそうな人がいても通り過ぎる)"安全圏"からなら積極的に関わりだす(モンキーマンの逸脱を黙認している出席者、しかしひとりが遅ればせながら止めに入った瞬間に雪崩のようにみなが群がりボコりだす)

映画でいえば結局のところ階級差や身に付いた悪意ない(私とあなたは(住む世界が)違う)感覚は変えようがない(金持ちと物乞いの対比)だと思う

だからクリスティアンが投函したビラ(の一枚)で家族にあらぬ疑惑を向けられて尊厳と権利を損なわれ憤る少年から真っ向から怒りをぶつけられても、クリスティアンには少年の怒りが理解出来ない
彼は当惑して拒絶するしか出来ない
(最後は歩み寄り和解を申し出るがその弁解はとんちんかんだ)

でも彼は悪人ではないし邪悪な人でもない
気持ちも懐も余裕なうちは人格者、不利益なことが起こりそのストレスから普段は出さない差別や偏見や無関心、狭量さが表に現れてしまったとしても、それは誰でもそういう側面はあるだろうという非常に人間らしいといえば人間らしい
私でもそれには心当たりはある
(ライフスタイルは全く違うけれど)

世の中、連携連帯弱者寄り添いを掲げていても所詮は他人事だし、当事者じゃない層がソレのため(例え理念は善性ある活動だとしても)拡散宣伝には虚飾が混じる
そして普通に人間は保身大事、面目は守りたい
劇中で逃げ腰及び腰になっていた人達を笑うことさえ出来ない、私だって同様だ、目くそ鼻くそを笑う

「スクエア」の中の「みな平等公平の権利」は
あの白い正方形の中でしか成立しない
現実にはそんなものは無い
机上の空論、高邁な思想家の夢想とも言える

でもそこにある(であろう)理想形を夢みて、そうあろうと努力してみることは悪いことではないと思う

だからクリスティアンの最後の行動にオチが欲しかった
"謝罪の機会を永遠に逃した"で終わらせるではなく、そこに何かもう少し道筋を加えて欲しかった
気まずさが満ちる車内に観客を置いてけぼりにするのではなく


結局は自分に出来る範囲で「スクエア」から背負える範囲のものだけを背負っていくしかない
最善を選択(とその場では判断している)ことを反省を繰り返しつつやっていくしかないと私は改めて思うなどした作品だった

しんどいので多分二度は観ない……😅 

「関係性の美学」提唱者のニコラ・ブリオーの本

日本でみられる「関係性の美学」なアートの一例

おしまい。

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