やりたいことをおさらい6〜言葉の限界

頭の中がこんがらがってきたので
整理を兼ねて、アウトプット。
わたしのやりたいこと、なんでこの発想に行き着いたか。

↓前の投稿までで整理できたこと↓

三浦春馬くんの死をきっかけに、両親が精神を病み、思春期の頃から「自殺」「生きるつらさ」がキーワードだったことを思い出す。
大人になってからは、好きなアートを通じて多様性を認める社会を作りたい、とフランスに行くが志半ばにして帰国。アートを仕事にすることを諦める。
子どもを産んで編集の仕事をするが、本当にやりたいことも、息抜きの方法も忘れるほど追い詰められて出社できなくなり、お暇生活に突入。それでもまだ、仕事にするほど得意だった「言葉」にこだわる言葉至上主義に陥っていた。

言葉至上主義だった私が
言葉は伝わりやすい簡単なツールと見せかけて
実は誤解や争いを生む超危険なものなのでは?と
懐疑的になったのには、2つ理由がある。

一つは、前の投稿でも触れた
言葉で説明して理解してもらえないと
自分の人間性を否定されたような気になり
攻撃的になることがあること。

また、言葉でアドバンテージを取っていたり
わざと話を分かりにくくしている人が
「頭がいい」と認識される風潮があること。
(その人自身が勘違いしてることもある。本当に頭のいい人は、相手が分かりにくい話しかたはしない)

お互いの背景や価値観が色濃く出るものなのに
同じものをやり取りしていると思い込みやすいな、と。
何より私を含め、人々の無自覚さが問題なのだけれど。

そしてもう一つは、言葉にならない無意識に
本質が隠されていることもあるのに
やり取りされているのは、意識化されている言葉だということに
どうにも矛盾を感じたということ。

私は言葉に敏感だと、前の投稿で書いたけれど
ノンバーバルの方にも敏感で
そのどちらからも情報をいっぱい得て
かなーり深読みをしてしまう。

だから、本人は気づいてないけど
怒っている理由とか、愚痴に感じるその人のコンプレックスとか
感じ取るけど、本人には気づくまでは言えない。
(言ってもその時は否定されることも多い)

なので、自我強めの話を聞くと
肯定も否定もできずにぐったりしてしまう。
(こんなに自分自分な投稿をしている私が言うかというかんじだね)

そんなときに起こったのだよ。
三浦春馬くんの自殺が。

原因は結局分からないし、一つじゃないだろうし
でも、それだけにたくさんの憶測記事が出た。
気になるから読んじゃう。
コメント欄があれば見ちゃう。
そして思った。

話し合っても理解しあえない人はいる。
その人たちに説明しても、対話にならない。
不毛で、説明しただけ疲れるだろう。
でも、そういう人たちの価値観が変わらなければ
(つまり、自分が正しいと思い込んで人を攻撃するような人がいる限り)
多様性を認める社会なんて絶対に作れないわけだ。

私には言葉しかなかった。
でも、言葉の限界を感じた。

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