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孤独や苦しみや寂しさを分かち合い、ぼくたちは同じ毛布で眠った #ワンダーウォール劇場版

あの頃、なぜぼくたちは、なんともいい難いくらい悩み、苦しみ、怒っていたのか。「恋」と呼ぶほどに苦しい、あの頃の葛藤や熱狂は、いったい何がわたしたちをそうさせていたのだろう。

あの寮を離れて、3年ほどたつ。社会というものの仕組みやルールを知り、少しだけ大人になった。そのときの気持ちはもう、あまり思い出せない。

京都大学にはおおむね2つの自治寮がある。築100年以上の木造の吉田寮と、その半分くらいの築年数の鉄筋コンクリート造の熊野寮だ。わたしはその若い方の建物に2012年から2017年の5年間住んでいた。

そこでは学生たちが自分たちの手で、その大きな建物を120人もとい450人強の人数で暮らすために、さまざまな仕事を分け合い、さまざまな物事を自ら決める「自治」を行っていた。

変人たちの巣窟と呼ばれる吉田寮もとい熊野寮だけど、決してわたしたちは変人だからそこに集まったわけではない。

特にわたしが住んでいた熊野寮は、吉田寮のそれがあまりにも極端であるので、消去法的にそれなりに建物の体をなしている熊野寮が選ばれ、そこにはよりふつうの者たちが、集まった。

なぜわたしたちは「そこ」に来たのか

1年だけ留年したわたしは後輩を合計で4回、先輩をいう立場で出迎えた。たいてい一度は「なぜここに来たのか」と彼ら彼女らに問いかけた。

「大学に行くなら、国立で、寮に入らないといけないって親に言われたので」とか「うち、お金がないんで」とか、たいていはそういう理由だ。そもそもの問題として、お金がなくてそうするしかないのだ。

そして、前者のセリフを唱えているのはわたしだ。わたしであり、ある先輩であり、ある後輩であった。

多くの学生とその親たちは、経済的理由からそこへ入寮することを希望していた。入寮選考委員という、入退寮の取り仕切りや手続きの仕事を行う委員会に所属していたわたしは、経済選考という、所得が少ない家庭の学生を優先的に入寮させるために設けられた制度で提出された書類に、幾度となく目を通した。

働いて生活することの大変さとか、ひとつの家庭がいったいどんな家計でやりくりされているのかとか、大学に通うためにはどれほどの費用がいるのかとか、そういうことをなにひとつ知らないまま、「いったいわたしたちにはこれらを見て、判断する権利があるのだろうか」と思いながら、一家の所得を証明するための書類や、その経済的な事情を伝えるための陳述を、ある一定の基準に満たしているかをチェックしていた。

誰かひとりだけが特別不幸というわけではない。それぞれにそれぞれの事情があった。大学に行くなら国立で、奨学金を借りて、学生寮に暮らすことを強いられていたわたしたちは、18歳前後の「ふつうの学生」だった。

どうしてもそこから離れたかった

寮に集まったのは、裕福でなく、特別な英才教育を受けているわけでもなく、親が格別に優秀なわけでもない、全国各地のごくごく普通の家庭から、京都という土地に、たったひとりで出てきたような子たちばかりだった。

「小さいときにお父さん、家をでていっちゃって」「正月にうちでお母さんの彼氏とご飯食べて」「一応、名字変わったんだよね」

ときどき寮の仲間たちと話していると、家庭のなんらかの不和を思わせる言葉にドキッとする。わたし自身もさまざまに諸問題はあれども、一応、両親とも離婚もせずに、夫婦として存在していた。そのため「片親」というものにあまり慣れていない。

寮に来てからは、結構よくあることなのだな、と思った。だからと言って、見た目や性格、考え方や行動は、とくにひとと特別変わっていることはなかった。ただ、片親というだけだった。

きっと皆、家庭や地方のなんともいえない閉塞感をきっと感じていたのんじゃないかなと、いまになって思ったりする。

暴力やモラルハラスメントをされているわけでもない、ご飯も毎日食べさせてもらえるし、それなりに好きなものは買ってもらったり、遊ばせてもらっていた。

けれども、なんともいえないような、ここにはずっと居られないような、そんな気持ちがずっと心の奥底にあった、そんな気がする。

ここを離れたい、自由になりたい。違う人に出会いたい。そんな気持ちが、外の世界にわたしたちを駆り立てていたのかもしれない。

そうして、わたしたちが持てるたったひとつの「頭の良さ」という資源をつかって、どうにかここにやって来た。

はじめて見つけた居場所

同じ場所で起き、食べ物を食べ、学び、喋り、遊び、そして眠る。1日の大半の時間をともに過ごすわたしたちは、ときにお互いの持っている手札をすべて見せあって、裸の心で言葉を交わした。

誰にもうまく言えなかった気持ちを、初めて人に打ち明けられた気がした。

自分とすこしだけ似ているようで似ていない他者に出会って、なんとなく家に居場所のないようなあの感じや、うまく言葉が通じないような違和感を、知覚して、そうだよね、しんどいよねと分かち合った。

どこにも居場所があるようだけどうまく見つけられず、言いたいこともうまく言えずに心の奥底にしまって、心に拠り所が人より少ないわたしたちは、その寮で、はじめて誰かと分かり合うことができた。そして同時にときに分かり合えない存在であることも知った。

お互いにつらいとか、さみしいとは口にすることはなく、そして同じ場所でいつも一緒になにかをするわけでもなかったけれど、ただそこに一緒にいて、人の気配を感じていられることが幸せだった。

談話室や、ロビーには薄汚い毛布が転がっている。わたしたちは、そういう人の気配のするところで、お互いに身体がぶつからないように、だけど気配は感じられる距離を保って、眠った。

なにかを人に提供しなくても、無条件でそこに居られる場所を見つけられたと、あのとき、わたしは感じた。

例えばコミュニティの中心になって道化になったり、誰かに気遣ってなにかを取り繕ったりせずとも、もしくは、特別な容姿や才能、技術やキャラクターをもっていなくても、ただそこに居ることを許された。そしてわたし自身も、そこでは誰かにそうすることは求めなかった。

それでもあそこは期限付きの場所だから、大学を卒業して大人になるために、わたしたちはあそこを離れないといけなかった。

それでも、あの頃に無条件でそこに居ることを受け入れられた記憶は、一生、ずっと、心の中で生き続けている。

あの頃に出会った仲間たちは一生の友だちになった。今でもときどき、親戚の集まりのようにして、盆や正月や、誰かが結婚したり、子どもを生んだりすると、連絡を取り合って集まる。もうそろそろ10年の付き合いになりそうだ。

マメに連絡をとっているわけではないけれど、会いたいと言えば、いつでも会える気がしている。そういう存在が地球上にどこかにいると思うと、生きていけるきがした。

「寮がなくなるかもしれないんだぞ、ここがなくなったら、いったいどこにいけばいいんだよ――」

ワンダーウォールの中で、ある寮生同士が口論になるシーンがあった。寮自治へのコミット度の差から生まれる口論だ。わたしも学生時代によく経験した。

ワンダーウォールの彼もまた、居場所を見つけられないでいた、あるひとりなのだろう。

あのとき、あそこがなかったら、わたしはいったい、どこにいっていたのだろう。

ああ、なくなるなよ、吉田寮、熊野寮。




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