「世界にひとつだけの花」という歌はなぜダサいのか。
去る11月20日、私が客員研究員を拝命する社団法人倫理研究所主催『青年フォーラム21』に来賓として出席してきた。
会場の両国国技館は6,000名を超える聴衆を集め満員である。12歳から31歳までの「青年」11名の主張を聞こうとする聴衆の熱気も凄い。「青年の主張」が始まる。屈託のないまっすぐな主張には頷かされる部分も多く、こうしたクリアな体験を最も求め、これに安心しているのはほかでもない親や教師をはじめとする大人なのだ、ということが改めて感じられた。
テーマはいじめや病気、別離などの艱難を克服し、そこから何かを見出しそれを糧に今後への希望を語るというものが多く、人が思いを馳せ考えを熟成させるのにこうした試練の時こそが必要なのだということがきわめてよく分かる。約4時間に達する弁論大会の最後の最後で私にはやや引っかかる演出があったことを記しておきたい。
「青年の主張」の最後は『世界にひとつだけの花』をモチーフにしたパフォーマンスで締めくくられた。個人的にはそれが気に食わない。(笑)この『世界にひとつだけの花』という歌の主たるメッセージは「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」という部分にあるのだろう。しかしこのメッセージが若者にとって真に有益だとは私には思えないのである。個々人がオンリーワンであることは、生物学的にも自明である。この辺りの言説は養老孟司氏の著作に何度も繰り返されているのでそちらを参照していただきたい。養老孟司の主張は乱暴にまとめると「個性は身体にこそ宿る」「意識は個性的でなくてよい」「意識としての個性(自分)探しはしても無駄」というものだ。そして現代日本の教育について「身体的な個性を重視せず」「意識としての個性を伸ばす」という間違ったディレクションであると婉曲的に批判している。
現代の教育下にある子供たちは当然「意識としての個性」を探して彷徨しており、それに疲弊しているのだろう。そこに『世界にひとつだけの花』である。この歌のメッセージは養老孟司の主張とはまったく逆に「意識としての個性(=自我)」を単純に肯定するものとして受け取られるであろうし、事実、この歌を創作した者はそう思っているように感じられる。だとすれば、この歌のメッセージが広範に受け入れられることは現在の混乱を拡大こそすれ、決して現状に安息を与えはしないだろう。
すなわち、個々人がオンリーワンであることは既に自明であり、その自明性から出発し自ら意味を見出していくことが人生なのである、ということを大人は子供に教えなくてはならないのではないか、ということである。『世界にひとつだけの花』はこうした自明性を終着駅としてしまうメッセージである。当たり前のことに戻ってきたからといって、これからの厳しい人生を渡っていくための何の指針を得ることもできない。子供たちには(もちろん大人であれ)、こうした自明性を出発点として、自らの能力を開花させていくことが求められる。
個性は出発点である。その個性の中から自らの才能を見出し或いは見出され、人は成長していくのだろう。「個性」が最重要なのではなく、そこから見出される「才能」こそが最重要なのだ。「才能」とはそれを持たない人々を押し潰し、敗北させる冷酷なまでの力である。そしてまた「才能」は人々を惹きつけ多くを成し遂げ、多彩な創造を可能にする力でもある。だからこそ「才能」は尊いのである。「才能」の差は歴然として存在する。それは「みんな個性的だから安心して」という安易なメッセージとは真反対に位置し、個々人の間の厳然とした格差を浮き彫りにする。人生は残酷なまでの「才能」の差を思い知る場なのである。その厳しさを知り、そのうえでそれに耐えうる人間になること。そしてそれを支えるのが本当の教育の役割ではないのか。そんなことを考えている。『世界にひとつだけの花』のメッセージはこうした現実から目を逸らさせ人を出発点に釘付けにしようとする。私はかくなる理由でこの『世界にひとつだけの花』という歌が大嫌いである。(笑)
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