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生きるに値する|エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス

 アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』に、次のような一節がある。

人生が生きるに値しないからひとは自殺する、なるほどこれは真理かもしれない、──だが、これは自明の理というかたちの論理なのだから、真理とはいっても不毛な真理である。

新潮社, カミュ著, 清水徹訳, 『シーシュポスの神話』, p21

 主人公の中国系アメリカンのエヴリンは、繁盛しないコインランドリーを経営し、優しいがパッとしない夫のウェイモンド、古い価値観で説教し介護も必要な父・ゴンゴン、生活にだらしなくレズビアンである娘のジョイ、そして税金に板挟みにされている。
 そんなエヴリンは、ある日「別の世界線からやってきた」と称する、武術に長けたウェイモンドに促され、多元世界すべての能力を借りながら、世界の命運を掛けた戦いに身を投じていく──。
 おおまかなストーリーは以上の通りである。

 そのなかで、多元世界を壊そうとしている巨悪=ジョブ・トゥパキが、他の世界であらゆる世界線と繋がってしまったジョイであることが明かされたり、エヴリンがウェイモンドと結婚しなければ様々な分野で大活躍するはずだった(コインランドリーさえ!)という無慈悲な事実を突きつけられたりといった情報が積み重なってく様は、マルチバースSFの様相を呈してくる。
 マルチバースの内容もまた変化に富んでいる。ある世界線にてエヴリンはウェイモンドと駆け落ちしなかった。その結果、ならず者に襲われた際に武術の達人に助けられ、弟子入りし、ついにはカンフーを修め売れっ子カンフー女優にまで上り詰める。また、ある世界線では、人類は来るべき食料危機に備え、手の五指をソーセージに変化させた。また、その他の世界では、エヴリンその人が、他世界線の存在を確認し、しかも特定の世界線の能力を借りる技術を確立した。このような豊富な世界線のバリエーションも見どころである。
 また、「世界の命運」を掛ける戦いであるはずが、実際には、ある1日の、あるアメリカの一都市の、ある税務署のなかですべてが完結しており、モブは色々に出てくるが、主要な登場人物はエヴリンの周囲の人々で閉じているところは、「主人公の周囲の問題で世界が完結している」とよく揶揄される日本のラノベやADVゲームなどと同様の感覚がある。
 最終的に世界の命運を決する要素は「母親の愛情」「人にはなるべく優しく」という一般論に帰結する点は、ハリウッドやディズニー、古くは童話などの「売れ筋」の物語でよく使われる教訓的なラストとも見えるだろう。
 上記したような複合的で多層的な物語構成は、テンポよく進む物語、随所に含まれる笑いを誘うネタといったものと同じように、この作品を面白くさせる要因の一つとなっているだろう。

 だが、上記した要因はただの「物語を面白くする」要素でしか無い。詳しく言えば、作品が最も言いたいことに視聴者を連れていくための、仕方なく付与された部分であると言える。
 では、この作品で最も重要なこととはなにか? それは、「一瞬の最上の喜びのためだけであっても、人生は生きる価値がある」、である。

 ある世界線(作中では「アルファ・バース」と呼ばれる)のジョイ=ジョブ・トゥパキは、世界線移動による人間の可能性拡張の実験の際に、事故によってありとあらゆる世界線を一度に体験するようになってしまった。裕福な家に生まれて悠々自適な暮らしをするジョイもいれば、捕虜慰安婦として敵対勢力の人々の性的暴行を咥えられているジョイもいる……といった具合に、人間が持つ可能性の全てを体験してしまったアルファ・バースのジョイの精神は崩壊してしまった、その恨みを晴らすために、ありとあらゆる世界線のエヴリンを殺害して回っているとアルファ・バースのウェイモンドは説明する。

 実際には、ありとあらゆる体験をしたジョイは、人生の可能性よりも、むしろ人生の虚しさを悟った。幸福の絶頂にいる者が次の瞬間に絶望のどん底に落ちることもある。貧困の底辺にいる者が、一瞬の幸福のために贅の限りを尽くしてもまだ残る財を得ることもある。そのような「可能性」の無限性を知った彼女は、果たして生き続けること、目標を持つこと、夢のために努力することの虚無を悟った。しかも、その悟りを得たジョイは、アルファ・バースのジョイ=ジョブ・トゥパキのみだ。他世界の自分ですら自身の感得した虚無を共有することができない。
 始めは確かに、恨みからエヴリンを殺害していたのかもしれない。しかし、作品開始時点でのジョブ・トゥパキの目的は、エヴリンと虚無を共有し同じ視点を持つ仲間を得ることになっている。

「生命が発生する条件が整わなかった地球」の世界線で物言わず身動きをしない石になったエヴリンにジョブは言う。
「何もかも無意味」と。あらゆる可能性が存在するなら、この人生は唯一無二ではないと。ジョブは、本来は自分よりも経験豊富な大人の立場から見れば、このような無意味を踏まえてより高い視点を与えてくれるかもしれないと期待していたと告白する。
 しかし、エヴリンはただの冴えない主婦であり、なんの取り柄もないランドリー経営者だ。彼女もそれを受け入れる。自分の人生は自分のものではない、そのようなニヒリズムを受け入れて、荒野に向かって二人でHAHAHAと笑う。
 しかし、エヴリンは他世界線のウェイモンドの振る舞いからそのようなニヒリズムは「不毛な真理」だと悟る。他世界線の人生のほうが優れているかもしれない。一瞬後の選択で人生のどん底と絶頂が分かれるかもしれない。

 しかし、そうであっても、一瞬、ほんの一瞬の、それまでの不幸も苦労も挫折も帳消しになるような幸福のために、人生は生きるに値する。

必ずしも全人生のくまぐままで愛着していなくともいいかもしれない。たとえばそのなかのある部分、極端に言えば瞬間であってもいい。もしその瞬間がほんとうに素晴らしいもので……あれば、ひとはこの一瞬のために心から回帰を願うことができるはずではあるまいか。

岩波書店, ニーチェ著, 氷上英廣訳, 『ツァラトゥストラはこう語った』(下), p.344

 人は絶望しやすい。ひとりで生きているとなおさらである。すでにその正当性は否定されて久しいが、アブラハム・マズローの提唱した欲求の5段階説に生理・安全の次に社会的欲求と承認欲求が位置するのは、慧眼であったと言えるだろう。大きくなくとも、あるコミュニティや集団に属していると自覚でき、しかも他人から欲望されているということは、人にとってあまりに根源的な欲求なのだ。
 ジョブは、カミュが言うところの、あらゆる世界線に関して「異邦人」だった。あらゆる世界線に属していながら、どの世界線にも帰れない、いわば世界線の迷子だった。自分を抱擁してくれる他者、自分と同じ目線でいてくれる誰かを欲するのは当たり前の欲求の発露であると言える。
 ジョブは、違う答えが欲しかったといった。しかしその実、「違う答え」なんてものはほしくなかった。ただ共感してくれるだけで良かったという点は、違う視点を得たエヴリンから逃げることからも見て取れる。

 エヴリンは勝利した。ジョブは敗北した。すべてを見た二人は、ただの冴えない家族に戻った。二人の勝利と敗北は引き分け、痛み分け、これからの人生に期待、というべき、明確な線引ではなかったかもしれない。しかし、これこそアルファ・バースのエヴリンが求めた「人間の可能性」だったのかもしれない。

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