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寄せ書き「巧いと思う歌」

このnoteは雨宮真由、斎藤見咲子、坂中真魚による公開書簡シリーズの8通目です。今回は「短歌と食べ物」から少し離れて、それぞれの思う「巧い歌」について考えました。

前回のnoteはこちら
「良い/悪い」「好き/嫌い」などを超えるには「巧い」を磨くしかないのではないかという疑問の提示でした。

斎藤見咲子の「巧い歌」

自販機は味方であろう万物が敵と味方に分かれたならば
/ 木村友「ピン・ポン」 『かばん』2020年7月号より引用

木村さん独自の考え方や世界観があって、それが反映されたうえでしっかり面白い。そこが「巧い」と思います。作者が見ているものを読者に伝える、というのはかなり難しい作業だと思うので。
「自販機は味方であろう」という不思議な出だし。万物が敵と味方に分かれるというなかなかに恐ろしい想像。そのうえで、なぜ自販機は味方なのかは説明されない。
解明できないところや、わからないところが面白い歌だと思います。

突然ですが、すごい短歌や良い短歌って、なんかうまく説明できないところに良さがあるんだと思っています。
そのため、歌の評を書くのはすこし苦手です。
「この歌はここがすごいんですよ」って指摘すると、
自分の考え方を他人に押し付ける感じになっちゃう気がして……。
私の評を聞いてしまったばっかりに、
「そうなんだ、この歌はそこがいいところでそういう意味を持ってるんだ」
って思われちゃったら嫌だなと思います。
読者それぞれが、その歌から受け取るものがあるはずだから。

だからこれは私の一意見でしかないってことは、
気に留めておいてください。


坂中真魚の「巧い歌」

朝いまだ城のごとくに冷えゐるをつらぬきとほる肉体の鳥
/小原奈実「錫の光」 『穀物』第3号より引用

彫刻っぽい歌だと思います。硬くてつめたい時空間にノミを入れたみたいな。「肉体の鳥」という表現が独特で、作者の世界認識と体温を同時に感じられる強い結句。

私にとって「巧い歌」の条件は大きく2つあると考えました。

1. 空間または時間の描写がある。一瞬より長尺、1地点より多地点のほうが複雑になることが多いので。
2. どの語も互いを必要とし合っている。いわゆる「無駄な言葉がない」歌かな。人間社会でいう成功しているチームみたいな、リソースと役割が緊密に融合した状態。

加えて、ボーナスポイントが2つ。自分が作るとき使用しない(できない)技法への憧れ加点です。

1. 直喩が効いている。ストレートな比喩は「喩っぽく見える何か」より成否が見えやすいので勇気が必要かと。
2. 文語や旧仮名で、その必要性がある。例えば完了など口語では出しづらいニュアンスをコントロールされているとき。この歌の場合は「いまだ〜冷えゐる」の補助動詞で状態の継続を示したところと、「とほる」の表記上の効果。

ボーナスの基準は自分の変化に応じて違うものになっていく可能性がありそうなので、「巧いと思う歌」も大筋は固まりながら変わっていくのかもしれないです。


雨宮真由の「巧い歌」

火をひとつくれ そのあかりそのくるしさでずっと夜更けの森にいるから
/小林朗人「終点」  短歌同人誌『一角』より引用


はじめて読んだときに一瞬で心をつかまれて、それからずっと好きな歌である。「好き」と「巧いと思う」は違うことだとは思うが、好きだと思う中には巧いと感じる部分も含まれていると思うので、できる限り言語化してみようと思う。

この歌の巧いところは、一読して情景が立ち現れるところ、そしてそれは情景でありながらまるごとそのまま作中主体の心境として読み手の心に触れてくるところだと思う。夜更けの闇深い森。そこにあかあかと燃える火。そのあかりはそれだけで心が満ちるようなものでありながら、見つめていると苦しくなるようなものでもある。ただひとつのものに心を揺り動かされる有り様が、炎の揺らめきとも重なって、作中主体の胸のつまるような思いに読み手も苦しくなるような気がする。
私はこの歌を、叶わない恋をしている主体が、自分の想い人に向かって「火」になるような思い出がひとつだけほしい、と言っている歌だと思って読んだ。でもこの読みはあくまで私の読みである。「火」はその人の人生全部にわたるような何かへの希求とも読めると思うし、この情景を心象とせずそのまま捉えて美しいという人もいるだろう。


私が思う「巧い歌」というのは、意味は一義的にならずいろいろな読みができる一方で、読み手の心に刺さる強さがあり、読み手がそれぞれの想いを反映させられる歌なのだと思う。


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