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往復書簡7 新しさ=懐かしさ

このnoteは雨宮真由、斎藤見咲子、坂中真魚による公開書簡シリーズの7通目です。

坂中真魚 から斎藤見咲子 への手紙

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見咲子さん

「『今までにない視点』とは何か」という問題、私もよく考えます。
そして、短歌において必ずしも新規性は重要ではないーーなぜなら個人の体験はそれぞれ一回性のものだからーーという見咲子さんの立場に同意します。

私は新発売のアイスクリームが大好きだし、目新しいモノはなんでも試してみたいタイプです。だからなのか、「新しい作品」に「ニューリリース」以上の価値を感じられずにもいます。「新しい」は個人の主観だし、集団にとっての「新しさ」は作為的に与えられた錯覚なので。

同じモチーフで何度つくっても良いんだ!と感激するのは佐藤佐太郎に触れるときです。全歌集には「蛇崩」を含む歌が27首(3歌集の合計)もあって、似ているようで違う歌たちが重層的な世界をつくっていることに驚きました。

突然に大き飛行船あらはれて音なくうつる蛇崩の空 「黄月」
晩秋の蛇崩坂のうへの空しづけさはその青空にあり 「天眼」

毎日同じ道を往復しているのに、カメラの画角やズーム・再生スピード、五感の絞り方・レイヤーの重ね方……ひとつひとつ違っていて。

同じテーマを丁寧に掘り下げた歌をたくさん読むの、嬉しい。
一人でもいいし、共同で掘っていくのも楽しい。


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ここからは認知心理学と短歌の評価について考えたことです。(専門ではありません。)


人間は「本当に新しいものは理解できない」のだという話を聞きますね。
斬新に思えるアイデアはたいてい、既にある何かの掛け合わせだとも。

私たちの脳はすごくズボラなので、「認知容易性」を好むのだそうです。
たとえ忘れていたとしても、見覚え・聞き覚えのある単語/読みやすい・わかりやすいものに親しみを感じ、評価する。*
ただ、馴染みがありすぎると注意が向かず、安心しきってスルーしてしまう性質もある。

そういえば、子どもの頃に初めてマリー・アントワネットを知った日から、急にあらゆる新聞や書籍やテレビがアントワネットの話をしはじめて困った時期がありました。「フランス革命」「ロココ」から、お菓子の「ブルボン」まで、彼女にまつわるすべてを拾ってしまうアンテナが身体にくっついたみたいに。200年以上前の出来事を、当時の私はひどく鮮明に感受していました。でも今はもうそんなに過敏状態ではありません。

だから「全く新しい視点で〜」と作品を形容するとき、私たちは「知っているものの知らない部分」に感応しているのではないかと思うのです。
「新規性が感じられない」が批判にならないのは、その裏返し。

・チョコミントのように興味ない・まったく触れたことがない分野に関しては、よく見えていないので「(歌会の評っぽくいうと)解像度が荒い」。

・見覚えがあると、注意が向き新鮮に感じて高評価。

・見慣れているものは、オートパイロットモードで読み流す。特に他のことに気をとられているときには顕著。


突き詰めると、新しい/新しくないを決めるのも、好ましい/好ましくない(面白い、カッコイイ、etc…)を判断するのも、読者の状況しだい。作者がコントロール可能なのは巧い/巧くない、だけかもしれない。

そういう気持ちで最近は「技巧的に優れている短歌とはなんだろう」とよく考えています。
比喩が的確なこと?韻律が良いこと?韻律の感受にも個人差があるよね?

ふたりにとって「巧い歌」ってどんなものですか?


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