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自転車とは自由

 自由の象徴がもしあるとするならば不自由の中を生きていることになる。そんな寂しい生き方を自分はしたくないと思ってもどうしても不自由の手は忍び寄る。そもそも何が自由なのか。自由を求めようとすればどんどんと自由は遠ざかる。どんどんと不自由な海に沈められていく。

 ジメジメした、曇天が広がる梅雨には家から出ることが減ってしまう。わざわざ濡れてまで外に出ようとは思わない。そもそも雨が降れば外に出ない。止むまで待とうホトトギスとはよく言ったもので、雷雨に見舞われることが多い宇都宮まで通ってた高校時代は逆に雨に打たれることはほとんどなかった。

 少なくとも6月はアウトドアには向いていないし、歩こうがチャリを乗ろうが少しすれば汗が地面に滴るほどジメジメしている。6月は1番長く感じる月でもある。梅雨で祝日もないからどうしてもそう感じてしまうを得ない。

 自由の象徴と言えば、という話題なのだがふと自転車が目に入った時にこれだと思った。自由と言えば自分にとって自転車だってことを。自転車で坂を下る時にふと思った。と言うよりも言語化できたという感じか。

 しばらく昔、マッチングアプリで出会った人と話している時に自転車よりも車がいいと言われた時に何故自分は自転車にこだわるのだろうと我ながら疑問に思った。確かに自転車よりも車の方が楽に遠くに出かけることができる。自分も金と土地があれば車を持っていると思ったけど、残念ながら金もなければ土地もない。その代わり自転車なら金もなければ土地がなくても持てる。いや、金はある程度必要だけどね。

 パートナーとならお互いサイクリングが趣味でもなければドライブするわと思いながら、オリジナルのハイボールが喉を通っていく。わざわざテントを張りながらも上手くいかず、そして蚊に刺されながら野宿する必要もなく車内泊できるやんと思いながらも自分は自転車にこだわる。

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 今は2台の自転車にお世話になっている。グラベルとミニベロ。どちらも立派なやつなのだが、昔からの憧れで今は2台持ちをしている。どちらともロードバイクの中では中堅クラスかそこらだけどそれでも10万はしてしまう。ママチャリが6、7台は買えてしまう。

 忘れかけていたある人のことをふと思い出した時に、どうして自分は自転車に乗るのだろうかと思った。疑問がわいたと言うよりもその疑問の答えを思い出したという形だった。

 それは自転車が自由の象徴であること。

 自転車は昔自分にとって自由の象徴であったということだ。いや、今の自分にとってもそうなのだ。自由を求めるために自転車はある。自由の象徴としての女神、じゃなくて自転車。自転車さえあればどこにでも行ける。何とかなると信じていた時期があるぐらいだ。

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まち巡礼

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