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「べき子」と「たい子」

こんにちは。トーリです。

今となっては「自分の機嫌は自分でとる」がモットーの私ですが
とはいってもイチ一人の母親
自分のことを優先したいと思っても
どうしても子どものことが気にかかったり
子どもの要求に応えてあげなきゃっていう思いが前面に出てしまって
結果本来不必要なケアに走って将来的に子どもの力や主体性をそいでしまう
ということがよくよくあったし、そうゆう構図の親子関係もたくさん見かけます。

今回はこの
「いい母親でいなければならない」
「子どもの要求に応えなければならない」
という「思考の癖」
言葉を変えれば一種の「執着」みたいなものは
いったいどこから来たんだろう
ということに関して私の中でとっても深い学びがあったので
ここでシェアしたいと思います。

「べき子」と「たい子」の対決!


子どもの気持ちに寄り添いたい
子どもに悲しい思いをさせたくない
子どもの要求をできる限りきいてあげたい

そのためには…
私が我慢をすればいい

意識してというより、
なぜかそうあるべき!とずっとずーっと思って生きてきた私

その思考の癖は一体どこから来たんだろう


・・・・・・・・・・・・・・・・・


実は先日、自分の要求と娘の要求が相容れないことがあり

いつも通り真っ先に顔を出したのは
仕方がない…
わたしが諦めたほうがいいんだろう…
娘の「~たい」を「私」が叶えてあげなくちゃ…
母親だもん、私の方が我慢するべき…
子どもの要望をきいてあげなきゃ…
満たしてあげなきゃ…
と当然のように思う「私A」通称「べき子」

でもそれと同時に今回は
でもわたしだって本当は○〇したい!私本当に我慢しなくちゃだめ?
という自分の要求を叶えてあげたいのーっていう「私B」もでてきた!
これを「たい子」と呼ぼう

ここに
「べき子」と「たい子」
これはどないしたらええんじゃろーー!?という自己対話が始まった。


私の執着はどこから?



まず前者の「べき子」はどこから来たのか

私は子ども時代親に甘えたい時に甘えられなかった…と自分で強く認識しているところがあって

「さみしい」「悲しい」「嫌だ」「私のそばにいて」「行かないで」って本当は言いたくてたまらなかったのに
親の置かれている状況をみて
その言葉は言っちゃいけないって勝手に思いこんで
ぐっと奥に飲み込んでしまった
という経験がある

だからかな
あの頃の私と同じ思いを子どもに絶対にさせたくない
「母親たるもの、子どもの要求を叶えてあげなければならない」
「自分に厳しく人に優しく」あるべき!
「いい母親であろうとするべき」
という典型的な「べき子」が生み出してくる数々の思考の癖が知らぬ間に自分の中に深く深く刻まれてしまっていたんだなぁってことに改めて気がついて何かパ―ンと繋がった気がした。

その瞬間ふっと身体の力がぬけた。

あー
だからなのか
だからわたし、こんなになんでも頑張って私がなんとかしてあげようって思ってたんだ…
私ばっかり一人で家庭内で動いていた構図はあの時の満たされない経験からきていたんだ
私はあの時の私を子どもへの対応を通して満たしてあげようとしていたんだ…
と自分の子育てにおける思考パターン、行動パターンの根っこに
やっとこさ辿りつくことができたのだった
万歳!


思考のパターンはアップデート可能?



これに対して後者の「たい子」
彼女はここ数年で自分を大切にしようと心がけてきた結果、浮かんできた思考だということになる

「私が私を満たしてあげること」
「私の希望は私が叶えてあげてもいい」
「自分に優しくあっていい」

アドラー心理学や合気道を通じてとことん自分と心身と向き合うことで
少しずつではあるが自分を受容する具体的な方法をゲットした私は、
「自分は自分であっていい」
「自分の欲求を言ってみてもいい」
とようやく思えるようになってきた

「思考が変われば見える世界が変わる」
というのは
「思考が変われば抱く感情が変わる」
「感情が変われば行動が変わる」
ということ

そしていっつも同じ風に考えて陥ってしまうこの思考のパターン
「変わる」「変わらない」でいうと
「変わる」!!!」
とアドラー心理学では説かれている

正確にはよっぽどショッキングな出来事がない限りは
基本新しく劇的に書き変わるというよりかは
行ったり来たりを繰り返しながら少しずつ新しい思考パターンに
アップデートされていくという方がイメージが近いかな

というわけで私の中には自分を大切にしようとする「たい子」が時々顔を出すようになった、ということになる。
こちらも万歳!!


両者が辿る道とは


今回の出来事を通して私は
いつも陥りがちな「べき子」思考になりかけたところ
その思考の根っこである、過去のわたしが抱いた感情に触れることになった

その際に
ああ、嫌だったね、悲しかったね、辛かったねと過去の自分の感情を充分に感じきって、受け止めまくってあげた
誰かにやってもらいたかったことは、今の私がやってあげればいい

そのあとでいいから
今回の場合においては
でも
あの時の寂しかった私と
今私の目の前にいる私の子どもは
違う人だよ
って

脳が起こしていたバグを修正してあげること

あの時の状況と今の状況は全く違う
なんでもかんでも子どもの要求を聞くのはむしろおかしいことだし
そんなことしなくても、この子達にはちゃんと私の愛を伝えることができる

そやってバグが修正されることで
「べき子」も、
「え!?あっ、そーゆうこと? ならええわー」
と納得して、落ち着いてくれたし
もちろん「たい子」も自分の意見が通って万々歳

ってことで両者、円満の和解へと繋がることができた

というお話なのだけど
こうゆう些細なことなのだろうけれど
私にとってはとっても大きな気づきが
本当に最近多い

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私の中に深く深くひそむ「べき子」であろうとする感情の根っこ
その根っこに気づき、手放すということを
何度でも何度でも
これから繰り返していけばいいんだろうな

そんなことを感じた出来事でした

最後まで読んでいただきありがとうございました
この話がどなたかの心に響き、なにかしらの力となれば嬉しいです








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