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旧字体で読む『草枕』と、2000年代のインターネットについて

 一番好きな小説は何かと訊かれたら、夏目漱石の『草枕』と答える。『草枕』は、春先に熊本の温泉郷へ逗留とうりゅうに来た画描きの「余」が、ひたすら一人称視点で情景描写や思索を展開していく、ただそれだけの内容である。物語としては、ある不思議な女性との微妙な駆け引きが随所に挟まれ、「余」がそれに翻弄されたりもするが、強烈なオチや事件性は殆どない。じゃあ何が良いかって、何の変哲もない一人旅の情景すべてが、これでもかというほど美しく精緻に描写されているところだ。漱石は英文学、漢詩、古美術などに造詣が深いため、そうしたものに仮託して、あらゆる些細な事象が鮮やかに艶やかに記述されている。「余」の展開するこうした美的な述懐は、読む人によっては衒学的とも映るが、私はあの耽美な文章にいつも陶酔してしまう。

旧字体の『草枕』

 きっかけは、大学図書館にあった岩波文庫版『草枕』である。褐色で甘い匂いのするその古本を数頁手繰った私は、その深遠さに魅了され、衝動的にそのまま書店に赴いて新品を買った。問題なのはここからだ。新品のその本を途中まで読んだ私は、上述の世界観をしっかり味わいつつも、どこか物足りなさを感じたのだ。物足りなさの正体はすぐにわかった。「新字体で読んでいるから」だ。古ぼけたシミの入ったページを手繰りながらわざわざ旧字体で読むことで、より当時の空気感を味わいながら作品に没入できるに違いない。

 そうと決まったら、それを手に入れるまでだ。旧字体がまだ普及していた頃、つまり昭和20年(終戦)前後あるいはもっと以前に発刊された『草枕』を探す必要がある。欲を言えば、初版本を手に入れたかった。この突飛な目的の下、何軒も古書店を回った。一朝一夕では見つからず、パラフィン紙で包まれた昭和26年発行のそれ(100円)を発見できたときはとても興奮したのを覚えている。
(ちなみに、旧→新字体の移行は戦後すぐ成された訳ではなく、時間をかけてじっくり行われたようで、昭和26年発行版でも文章はしっかり旧字体である。あと、横書き文字が左からだったり右からだったり混在している。面白い。)

 適当に、好きな一節を取り上げてみる。

余は立ち上がつて、草の中から、手頃の石を二つ拾つて來る。功德になると思つたから、眼の先へ、一つはふり込んでやる。……(中略)……すかして見ると、三莖みくき程の長い髪が、ものうげに搖れかゝつて居る。見附かつてはと云はぬ許りに、濁つた水が底のはうから隱しに來る。南無阿彌陀仏。

この版では、すべての漢字にルビが振ってあり、読みやすい。

池に石を放り込んだら、舞い上がった泥煙で水草が見えなくなった。ただそれだけのシーンなのに、かくも艶やかな文章。これがずっと続くので、どのページから読んでも素晴らしい。そして最も重要なのは、旧字体によって、この美しい情景描写の解像度が物凄く高まっている点だ。会話文を比較するともっと顕著だ。「こういう静かな所が、かえって気楽でしょう」という一言も、「かう云うしづかな所が、かへつて氣樂でせう」と書かれれば、より作風に合致した風雅な響きになるし、当時の空気感がひしひしと感じられる。少なくとも私にとっては。

2000年代のインターネット

 この現象をもう少し一般化してみると、つまるところ、「文体が時代のリアルな空気感を反映する」ということだ。2000年代の古代インターネットの文章もその好例だろう。インターネット黎明期、Windows XPのInternet Explorerでアクセスした先の世界には、「〇〇は逝ってヨシ」「詳細キボンヌ」「キタ――(゚∀゚)――!!」などなど、今では全く見かけない表現や歯の浮くような会話が広がっていた。今それらを見ると、令和の時代には無い、ふしぎな空気感を感じられる。

 もっと話を飛躍させると、これは文学的価値とも捉えられるはずだ。古典文学の価値は、物語自体が持つ哲理(ヒュレー)と、描写の手技(エイドス)にあると思う。『草枕』でいうと、あえて旧字体で読むことが、エイドスの価値を底上げしていると私は思う。古代インターネットにおいても、このエイドスつまり表現の妙味を見出し、過ぎ去って失われた「あの時代の雰囲気」にノスタルジアを抱く、そんな愉しみ方ができるはず。小難しいことを抜きにすれば、懐古とかポップアートといったところか。

 旧字体が『草枕』に真の美的価値をもたらすように、インターネット黎明期における古語は、俗物の会話にある種の美的味わいをもたらす。すなわち、遠い昔に枯れた言葉で綴られた文章であれば、下劣なゴシップだろうと、なんだか味わい深く感じられる。個人ブログ、2ちゃんねる、はてな、mixi…何でもいいが、あえて2004年とかのアーカイブを覗いてみよう。当時の社会の空気感のもとで、みんながニュースやゴシップについてあれこれ言っている。不思議なもので、自分からあまりに遠い世界の喧騒に対しては、人は無関心を保てる。過激なタイトル、ヘイトたっぷりの政治主張、恋愛強者のご高説、芸能人のどうでもいい不倫事情、不快な美容系広告、学歴マウント…日頃私たちを不愉快にするどんな話題も、遠い昔にネットの地層に埋もれたコンテンツの死骸であれば、まるで史料を眺めているようなニュートラルな心地でいられる。その古い言葉で書かれた史料たちに、さも古典文学と対峙するような感覚で向き合ってみるのだ。古代インターネットのあの文体を通して掲示板のログを眺め、色褪せた時代に想いを馳せながら当時の空気感を味わう。これが最近の私の、小さな愉しみである。

 10年後、私の中で『草枕』の価値は変わらずにいるだろう。そしてその頃には、今日のインターネットの「○○で草」「チー牛」「地雷系女子」といったキツい言葉たちも、きっと時間の堆積によって味が出てくるのだろう。


イエローページ vol.24(2021/12/25)にて掲載
2024/7/13 加筆修正