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非合理な特殊解 7

宮本と六義園を最後に散歩した9月のある日の週末、夏子は休日であるにもかかわらず早起きをした。いつもの休日であればお昼くらいまで眠ることが多いが、今日はアラームを何重にもかけて8時に起きた。

カーテンを開け、窓に寄りかかると、マンションの隣に通る高速道路と近所のマンションに囲まれた細長い青空が見えた。

夏子はシャワーを急いで浴びると、股引をはき、半纏に着替え、足袋を履いた。そして紺色に白の麻の葉柄の刺繍のついた小さな物入れに財布と携帯を入れ、肩から斜めに下げた。

マンションの前の、高速道路で一日中日陰になりがちな道路を歩く自分の草履の足音がとても心地良く感じた。遠くの交差点で同じ半纏を着た人が信号を待っているのが見えた。夏子は早足になった。

「源さん、おはようございます。」

「なっちゃんおはよう。」

「今日宜しくお願いします。熊野神社の祭礼はまだ参加したことがありません。初めてなんです。」

「大丈夫だよ。ウチらは西新宿の町会の人達の神輿を担ぐけど、その町会には塚越さんがいるから大丈夫。」

塚越さんは三社祭で出会った、日に焼けた肌に眼鏡をかけた中年の男性だった。

その人は、三社祭で大きな神輿に入れずまごつく夏子の腕をぐいと掴み、ひょいと神輿の下に滑り込ませた。見ず知らずの人に腕を掴まれることはあまりなかった夏子は、最初驚いたが、1日中祭りの場で過ごすうちに、祭りってそんなもんなんだと分かった。担ぎ方、ルール、マナーをあらかじめ教えてもらえるわけじゃない。とりあえずやってみろ、やっていく中で自分で分かっていけ、というメッセージが、祭りの場にいる人達の言葉と行動になっていた。どこの誰かなんてわからなくても、皆んなが暖かく迎え入れてくれる。大きな神輿であればあるほど、地元の人だけでは担げない。応援に来てくれている人達に対する感謝や、慣れない場所でも楽しめるようにとの気遣いが、その場の人達の言葉の根底に感じられた。ありがとうが飛び交う。祭りができる喜びで歓喜した人々を眺めながら、その土地に幸運が降るよう祈り、微笑んでいる神様が見えた気がした。

「塚越さんのホームなんですね!」

塚越さんは夏子が出会った中で一番のお祭り好きな人だった。聞いてみると、初夏ごろから秋まで毎週の週末は各地の神輿の祭礼に毎年参加しているそうだ。同じ日に2つのお祭りをハシゴすることもあるらしい。

「そうそう塚越さんの地元。賑やかだよきっと。」

塚越さんは沢山の祭りみ参加してきている。ということは、手伝いに来ている人も各地から沢山来ているということが想像できる。

「楽しみですね。」

様々な祭りの雰囲気を纏った人たちが丸く調和し、それを眺めて控えめに微笑む塚越さんが頭に浮かんだ。

「夏子!あなたよく起きられたね!今日は朝まで働いてなかったの?」

背中の方から大好きな元気な女性の声が聞こえた。

「ユキさん、おはようございます。はい。今日はしっかり祭りができるように休みました。」

「本当は歌舞伎にでも行こうと思ってたのに、あんたが熊野神社の祭り行きたいというから、疲れちゃうわよ。」

夏子はこの優しい憎まれ口に笑みがこぼれずにはいられなかった。

「ありがとう。これはしょうがない。ユキさんは夏子の保護者だから頑張ってちょうだい。でも安心して。飲んで眠くなっても、ユキさんのことなら私が中野から日本橋東までおんぶして帰ってあげるから。」

20人程度の同じ半纏の人たちが地下鉄に乗り込み、中野坂上へ向かった。

地下鉄を降り、地上に出ると様々な半纏をを着た人が歩いていた。

僅かに蛇行した道を細い路地を進んだ。

あるところから急に路地の両側に藁の紐が締められていた。その飾りを目で追いながら道の奥の方に、神輿が台の上に置かれているのが見えた。

神輿は日頃は分解されて保管されている。祭りが近くなると、地域の人が協力して組み上げる。街の藁飾りなど、祭りには準備が沢山あるのだ。

「大きな立派な御神輿だね。」

夏子は神輿を見ながら言った。黒塗りの艶も金の装飾も美しい。金と黒の割合がとても素敵な御神輿だった。人が担ぐ丸太を見ると、何となく年季を感じる。この御神輿は新しくはない。

お祭りに参加するようになって思うことは、日本には、様々な年代、立場の人が一緒になって大事に守ってきたものが実は沢山あるんだなということだった。見かける御神輿のほとんどは新しくない。しかしとてもどれも美しい。どのお神輿を見ても、それを支える沢山の人を感じられるようになった。祭りに参加する度に、夏子はとても暖かい気持ちになった。

「そうだね。ここは半纏を着ている若い人が沢山いるから安泰なんだろうね。」

この町会には神輿の組み方を伝えられる人が沢山いそうだなとユキは思った。

「いや、そうでもないみたい。ここはここで色々あるよ。」

源さんがタバコを物入れから出しながら言った。

「そうなの?」

夏子はどんな理由なのか知りたかった。

「あ、日本橋の皆さん、こんにちは。今日はありがとうございます。宜しくお願いします。」

 塚越はとてもいつもより張り切っていた。自分の地元の祭りは、格別なようだ。

「塚越さんこんにちは。三社祭では大変お世話になりました。今日もお世話になります。」

夏子は数歩駆け寄った。

「ああ、あの時の。今日は安心していいよ。(御輿の下に)入りたそうにしてなくたってみんな入れてくれるから。」

塚越はそう言って笑った。

「そうだ。夏子、ずっと入ってろ。お前最近太ってきたからな。」

源さんが意地悪な顔をした。

「そうよ夏子。神輿の中にずっと入り込んじゃえば日焼けもしないよ。あんた、頑張んなさい。」

女子力の高いユキさんが言った。

「私、体重も日焼けも気にしてませんよ!それに、初心者なんだよ!」

体重も日焼けも気にしていないと夏子は言いながら、エマにも昨日同じことを注意されたなと思った。

「初心者?もう何回かやったんだろ?お前さんはもう経験者だ。」

源さんがタバコに火をつけた。

「そう。今日初めての人がいたら教えてあげて。全てそんなもんだから。」

塚越はニッコリとした。

「飲み物食べ物、あちらに用意してますので遠慮しないで。今日宜しくお願いします。」

そう言って軽くお辞儀をすると、塚越は、近くにいた別の地区から来た応援へ挨拶に行った。

夏子は塚越の背中とその周りの雰囲気を眺めた。

「塚越さんは、立派な人だよね。」

夏子はつぶやいた。

「そうだね。それを支える人も立派。」

ユキは夏子の曲がった半纏の襟を伸ばしながら言った。

見渡せば、様々な人が動いている。食べ物を用意している人、飲み物を準備している人、神輿の番の人、その間小さな子供たちの面倒を見る中学生くらいの子たち。

「本当だ。」

夏子は嬉しくなった。

「そう。みんな立派。」

ユキも微笑んだ。

「うちらだって立派。あんたもね。」

源さんも言った。

「ははは。」

夏子は笑った。

「今日も頑張ろう。」

源さんが言った。

「うん。」

夏子は頷いた。

熊野神社への道は神輿で大渋滞になった。色々な半纏を着た人たちが蠢き、道の沿道には沢山の見物人や通行人で犇いた。熊野神社の賑やかな祭りは夜まで続いた。

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