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非合理な特殊解 1

深夜2時の静かな古びたアトリエに、声を押し殺したような笑い声が響く。色々な色の絵の具の染みのついた白い抱き枕を抱えながら、夏子は必死で笑うのを堪えている。
「う、ふっふふふ。ははは。」
「ダメ。笑わないで。」
夏子の友人のエマが、わざとらしく眉を顰めながら、夏子の背中に筆で色を塗っていく。

2人は友人といっても、共通点はほぼ無い。田舎育ちの何の取り柄もない27歳の夏子、一方で都会育ちで画家のエマ40歳。エマの母親はフランス人で、10年以上前に帰国したらしい。父親は日本人で、その人とは子供の時以来会っていないが、エマの家はその父親のものだそうだ。2階にアトリエのあるその一軒家で、エマはずっと一人で暮らしている。

「ごめん。でもウエストは大変。」
夏子は悶絶しながら言った。しかしそんな事はお構いなく、夏子の背中の右半分のあちこちをエマの筆が撫でていく。
「しばらく我慢。」
「うっ、うん。うっ、ふふふ。」
夏子の背中にどんどん大きな牡丹が開いていく。
「シワになる。動かないで。」
「ごめんごめん。」
花や葉を描き終え、牡丹が活けてある大きな唐壺に取り掛かった頃には、夏子のむず痒さも落ち着いてきた。
「寝たら?」
エマは筆を置いて、青や紫、黄色などの絵の具のを板の上に乗せながら言った。
「うん。あの、写真撮ってもいいけどさ。」
夏子は顔を抱き枕に埋めて言った。
「分かってる。顔は写らないようにするから。」
エマは上目遣いで夏子に言った。
「うん。」
夏子は一瞬だけエマに微笑んで、また顔を枕に埋めた。
「でもなぜ夏子は自分の写真を撮らないの?」
エマは、夏子の腰の膨らみに沿って朱色の線を入れ始めた。
夏子は顔を埋めたまま、動かなくなった。

エマが筆を置き、夏子が眠ったのかどうか確かめようと左のウエストあたりに手を置くと、夏子はやっと答えた。
「見たくなくて。自分の写真。何故かね、どうしても恥ずかしくなるの。運転免許の更新の時くらいかな。顔の写真撮るのは。」
夏子の声がか細くなっていく。
「本当は体も撮られたくないけど、絵があるし、エマが喜ぶから。」
「そう。」
エマが夏子の頭にキスをすると夏子はすぐに眠りについた。
エマは夏子の腰の朱色のラインに沿って、藍色のような青色のラインを引き入れ始めた。

エマと夏子が出会ったのは半年程前の、クリスマスも近いある日の深夜だった。エマはご贔屓のお客様との会食後、銀座の路地裏をタクシー乗り場の方へ向かって歩いていると、具合の悪そうな女の子がしゃがみこんでいるのを見つけた。その女の子は、白いドレスにファーのついたグレーのコートを羽織り、声をかけても手だけで「大丈夫。」と言うだけで、声も出ないようだった。

近くの病院へ送ろうと提案しても、頑なに行かないとその手が言った。そうしているうちに、その子はビルにもたれかかったまま眠ってしまった。しばらくはその寝ている女の子の隣に座って起こそうとしたり、声をかけたりしたが、一向に反応がない。深く深く寝入ってしまった。そこで仕方なく、エマはその女の子を連れて帰ることにしたのだ。

エマの家は世田谷区にある古い一軒家だった。最寄りの駅から徒歩で20分ほどかかるが、とても静かな古い住宅地だった。
普段のエマなら、女の子といえど見ず知らずの他人を、自宅へ連れて帰ったりする事など絶対無い。しかし、眠っているその女の子の横顔を見ているうちに、その顔に絵を描いてみたい衝動が起こった。無数の泡や魚、海月や波、色々な絵が浮かんできては消え、そして移り変わった。

この時のことを夏子はあまり覚えていないようだった。覚えていなのは、エマが持っていた和柄の手提げの撓んだ口から少しだけ見えた、絵画の中の幼子の少し不安そうな眼差しだけだった。

夜明け近くになり、エマは筆を置き、暫く夏子の背中を眺めた。その後何箇所か細い線描き入れると、アトリエの角の古い木の机の引き出しからカメラを取り出し、写真を撮り始めた。夏子には内緒だったが、横顔まで写った写真も数枚撮った。

それにしても、体に描く絵はとても不思議だ。人間の息遣いが、そのままその絵の息遣いとなり、始めからそうであったような不思議な調和をもたらしたり、時には絵に予想外の躍動感をもたらす。

エマはカメラをパレットの板の近くに置くと、階段を降りてリビングのカバンの中から携帯電話を取り出した。溜まっていた数件のメールの内容を確認しながら階段を登り終えると、夏子の肩から腰までに描かれた牡丹の絵の全体を写真に収めた。

「あれっ?もう明るい。何時だろう。」
夏子は携帯電話のシャッター音で目が覚めた。
「5時半過ぎ。」
エマは携帯電話を洋服のポケットにしまいながら答えた。
「出来た?」
夏子は半分ウトウトとしながらエマを見た。
「うん。見てみたら?」
嬉しそうなエマを横目に、夏子はアトリエのドアを閉めると、ドアに貼られた大きな鏡の前に背を向けて立った。
「すごく綺麗な牡丹!立っているより座っていた方が良いかも。」
そう言うと急にしゃがみ込んで、鏡の中の牡丹を見つめながら体をかがめたり捻ったりした。
「ねえねえ、少し背中を反ってみると牡丹の手前の花びらが少しだけ縮んで、他の花びらが風か何かに撫でられたような微妙な動きをしているように感じられるのが面白いね。」
エマは頷きながら、鏡の中を見て驚いている夏子を微笑ましく眺めていた。

「あ、もうすぐ6時。大変!会社の用意しなきゃ。」 
机の上のデジタル時計に3つの5が並んでいるのが見えた。
「あ、お風呂。ちょっと待って。」
エマは1階へ降り、バスタブの蛇口を開いた。

具合の悪い夏子を初めて連れて帰った日も、やはり5時55分ごろ夏子が急に目を覚ました。そして、自分はどこにいるのか、ここへ連れてきたあなたは誰か、自分がどうなっていたのかと仕切にエマに問い詰めた。夏子はひどく動揺していた。その動揺ぶりを思い出し、エマは少し吹き出した。

「もうお風呂いいよ。」
浴室のドアが少し空いて、モアモアとした湯煙とともに、こもったエコーのかかったエマの声が聞こえてきた。夏子は名残惜しいそうに鏡の中から視線を移し、アトリエのドアを開けて言った。
「ありがとう。」

エマが夏子に初めて描いたのは、色々な形に歪んだシャボン玉だった。体ではなく、顔の右半分に描いた。エマはシャボン玉の描かれた横顔を写真に収めたがったが、夏子が自分の顔の写真を拒んだため、それ以降、首から下、特に肩から腰にかけての背面に絵を描くことになった。

「やっぱり勿体無いな。この絵も落としちゃうのか。」
夏子はシャワーを絵に恐る恐る当てた。絵は少しずつ薄くなり、浴室の青いタイルの上に濁った灰色の水が青や赤などの筋とともに流れていく。寝起きでまだ目覚めきれず、じっと水の流れを見ている夏子の背中を、エマはスポンジで洗い始めた。


「今度何にしようかな。」
エマの握るスポンジからは、様々な色が混じり合って出来た灰色のような茶色のような泡が垂れて、腕を伝って脇腹から足に流れていく。
「やっぱり、動きが作れそうなのが面白そうだよね。」
夏子は前に横腹に描かれた錦鯉の絵を思い出しながら答えた。
「そうねぇ。」
エマは手を動かしながら、夏子の肩甲骨のあたりの凹凸や筋肉の動きを眺めた。
「じゃ、キリンとか長くて細い生き物はどう?」
「そうねぇ。今度はモノクロにしてみようかな。」
「モノクロ?じゃあ、虫は?もしくは足の長めな黒い蜘蛛とか。」
夏子は首だけ振り返って言った。
「蜘蛛。いいわね。悍ましく描いてみようか。」
エマは不敵な笑みを浮かべながら両手を幽霊のようにした。
「悍ましく?描き終わって私が動き出したら、飼ってみたくなっちゃうくらい可愛いく動く蜘蛛になっちゃったりして。ははは。」
エマはシャワーで夏子の頭の先から順に下へ向かって泡を流し始めた。
「ふふふ。」

夏子はバスタブの中で、横に座るエマにもたれかかった。
「エマ、ありがとう洗ってくれて。」
「うん。夏子、肌が良くなったね。」
エマは夏子の頭を抱いた。
「エマのおかげです。」
夏子は会社を休みたくなった。このままもう少し、エマの腕の中で眠りたくなった。

夏子は着替え終え髪を乾かすと、エマのいるリビングを覗いた。エマは黒い猫を膝に乗せて、ソファでお茶を飲んでいた。リビングのテーブルの上には目玉焼きの乗ったパンとスープ、そしてお皿に山盛りいちごが用意されていた。横に千円札が5枚、枚数が確認できるように広げて置いてあった。エマが微笑みながら小さく頷いた。

夏子はお礼を言ってカップの一番上にある大きな苺にフォークを刺した。
「エマ、絵はどう?ですか?」
「どうとは?」
エマは猫を撫でながら言った。
「何というか、お客さんと取引の、、」
夏子はフォークに刺さったイチゴを目の前に漂わせながら、ふさわしい言葉を見つけようとした。すると、エマはしどろもどろの夏子に苦笑いしながら答えた。
「売れてるかということ?」
「まあ。」
夏子は頷きながらその大きなイチゴを口いっぱいに詰め込んで答えた。
「大丈夫よ。この前売れたのよ。ふふふ。」
夏子のもぐもぐ膨れた顔を面白そうに見ながら答えた。
「そう。それなら良かった。」
夏子はチラリと時計の針を確認しながら、やはり口をもぐもぐさせながら答えた。


エマには家賃の心配が今は無い。「今は」というのは、家を所有している父親とはもう30年以上会っておらず、いつまでこの家に住めるかも分からないとのことだったからだ。
この前、背中に紫と白の花のクレマチスの蔓を描いた時、
「絵だけで食べていくなんて苦しいわ。」
とエマが呟いた。
「もしもの時は、私の部屋に住んで。」
と夏子が言うとエマは微笑んだ。
その時の、嬉しさ半分寂しさ半分というようなエマの表情が、その日からずっと夏子の頭の片隅に不思議と留まり続けた。エマにはどこか、行きたい所があるのだろうか。



「あのね、夏子が来ない日はパートタイムのお仕事もしてるの。だから、お金のことは大丈夫。」
「そうなの?パートタイムの仕事って絵の先生?」
夏子はひたすらもぐもぐしながら答えた。
「ううん違う。メッセージを送る仕事。」
「へぇ。事務職?」
「まあ、そんなところ。」
「じゃ、昼の休憩時間に電話したりしたら迷惑だったかな?」
「いいえ。仕事は夜中の1時から朝7時。」
「そんな時間の事務職、珍しいね。」
「まあね。だから、大丈夫。心配しないで。約束だから。お金持っていって。」
エマは猫を抱き上げて微笑んだ。
「う、うん。それじゃ。いつもありがとう。」
「いいえ。こちらこそ。」
夏子は札を鞄に仕舞い、そのまま鞄を肩にかけた。

玄関の中で見送るエマに手を振り、玄関の戸を閉めると、霧雨が降っていたが、夏子は構わず歩き出した。

エマの家を出て程なく、長い上り坂になった。それから上り坂が20分弱続いた。

夏子が初めてエマの家へ来た時、彼女は夏子を病院へ行かせようと何度も説得しようとした。夏子は、入院になったら面倒だから絶対に行かない!と、その説得を聞き入れなかった。すると、エマが言った。
「それなら、バイトの仕事頼まれてくれない?毎週ここへ来て。何時でもいいから。」
数時間前に出会ったばかりの見ず知らずの他人に、自分の体のことで何故怒られなければならないのか、夏子はその時は理解できなかった。ただ、エマの真剣さに押されて、業務内容を確認しないまま直感だけでそのバイトを引き受けることにした。



乗り換えのために渋谷駅へ降りると、歩きながら鞄から黒のカーディガンを取り出して羽織り、駅のトイレへ入った。長いトイレ待ちの行列をすり抜けて鏡の前に立つと、縁の黒い眼鏡をかけ、会社の社員証を黒いスラックスのポケットに押し込んだ。
地味な会社員夏子の出来栄えを鏡でもう一度チェックした後、はち切れそうな満員電車の中に紛れ込んで行った。

※このお話に登場する内容は全てフィクションです。

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