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初めての一人暮らし

 新居に持っていくものを一通りカバンに詰め終わると、吉岡大樹は小さくため息をついた。まぁ、忘れたものがあればいつでも実家に取りに帰ればいいんだとあまり深刻に考えすぎないように自分に言い聞かせている。最低限、財布とパソコンがあれば、今の時代、何とかやり過ごすことができる。

 社会人2年目に差し掛かって何となく社会の明文化されない規範的な部分についても立ち振る舞いが分かってきた大樹は、このタイミングで家を出ることにした。部屋探しの適切な方法もよくわからないまま不動産屋に行き、何件か内見に行ったのち、少し迷いはあったものの、不動産屋の軽い圧力を感じ半ば押し切られる形で新居は決定された。最悪、気に入らなかったらまた引っ越せばいいという浅はかな考えと、その小さな妥協が毎日のストレスを生み出すのではないかという一抹の不安が大樹の胸中に同居し、この梅雨時期のしつこい湿気のようにまとわりついて離れない。彼は何とか、もう決まってしまったことなんだから悩んでも仕方がないと半ば諦観にも似た感情でもって、この不快感を黙殺しようとしている。
 母が大樹の部屋のドアをノックした。
「明日の準備大丈夫なの?」
 心配性の母はいつもこのような確認をしつこくしてくる。大樹は辟易していた。
「大丈夫だよ。最悪取りに戻ってくるよ。来ようと思えばすぐ来れるし。」
「そうだね。毎月帰ってくるでしょ?」
「まぁそれくらい帰ってくると思うよ。」
 大樹は思っていもいないことを口走る。内心、帰るのはお盆と正月くらいだと思っていたが、ここで本当のことを言っても母がうるさいので適当なことを言ってお茶を濁している。
「あとお前さ。」
 こう言って母は一瞬間を開けた。
「変な女、連れ込むんじゃないよ。」
 捨て台詞のように言い放ち、強めに大樹の部屋のドアを閉めると、母は立ち去って行った。その声には半ば怒りにも似た感情がこもっていたように大樹には感じた。しかし、それは理不尽というほかない。彼は特に女性関係で問題を起こしたことはなく、その忠告はまったくと言ってもいいほど筋違いだと彼は感じた。何言ってんだか、と彼は部屋で小さくつぶやく。しかし、この母の一連の行動に、母の感情のすべてが詰まっているように感じた。もちろん、母の発した言葉の表層的な意味だけではなく、そこに込められた感情も含めて。
 明日新居に持っていく予定のカバンをもう一度見る。まぁ月一回くらい帰ってきてもいいのかなと大樹はふと思った。 

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