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常識に囚われない京都の友人

私は友達が多くない。
というか、とても少ない。
21歳ぐらいの時に、「友人が少ないのは人間的な欠陥があるのよ」と学生時代から職場、ご近所さんまで大勢の友人を持つ伯母に言われて、とても落ち込んだことがあった。その時の私は、友人を多く持つ人は人望が厚いと思っていたため、色々な意味で凹んでしまい、その思いを今もずるずると引きずっている。

「うちはなぁ、親しい人がめっちゃ少ないねん」

京都市内にて昼食を終えた京都の友人がお気に入りのほうじ茶片手に、にんまりと微笑む。友達が多い少ないというよりも、このミステリアスな友人が誰かと交友関係を結ぶなんて想像するほうがかなり難しい。それこそミステリーでしかない。

「確かに、〇〇ちゃん(京都の友人の名前)と友達って想像がつかないかも。どんな人が友達なのかと思う」
「何をおっしゃる、こんな人やろ」

と、私を指差す。この友人が私を友達の数に入れてくれていることに俄かなる驚きだ。

「でもな、うちは友達の数は少ないけど命預けられるぐらい信用してる友達しかおらん」
「命?」
「そう。ただひと時を騒いで喚いて遊んで楽しむ友達なんて腐るほどおるし、すぐに見つかる。うちはただ一緒に喚くための友達はいらん。信頼できる人が数人でええのや」

ふと20代の、悩んでいたあの時の自分に投げかけてあげられる答えをもらったような気がした。

「そもそも、友達の多さで人を押し測ろうとする人は浅はかや。一人きりの人やって性格のとてもええ人もおるし、友達に囲まれた悪人もいる。友達が多い方がええって誰が決めたんや? eveは昔、誰かからそう言うこと言われて、それをずるずる引きずって悩んではると思ったから、この話題を振ったわけ」
「え、なんで知ってるの? 」

聞くだけ野暮と思ったがつい尋ねてしまった。すると、友人はニヤッとお茶を啜る。あぁ、そうか、この顔をする時は私の何かを"視た"のだ。

「幸せに生きるコツはな、人間のなかの常識という固定概念に縛られへんことや。何故友達が多くなきゃいけへんのか、何故我慢することが美徳なのか、何故主婦は女でなきゃいけへんのか、何故異性しか愛しちゃいけへんのか、そういう一方的な社会の概念に縛られへんで、自分のハートに従って生きていれば幸せはいつも共にあるねん」

そう言えば、アルベルト・アインシュタインが、「常識とは18歳までに積み重なった偏見の累積でしかない」と言っていたのを思い出した。

常識に囚われた時、我々は常識の中の理想像に生きられないということに苦しみ、悩む。「こうでなくてはいけない」という型にはまった生き方をしてしまうと理想に近づくために苦しくなるだけ。本当の自分は何を求めているのか、心の声に耳を傾けることが幸せを掴むコツなのかもしれない。

この友人がいつも不思議な空気を醸し出しながら自由に生き生きとしているのは、きっとそういう社会の常識にとらわれて生きていないからなのだ。

「なんか気持ちがスッキリした」
「せやろ。ほな、何か食べよう」
「え、また食べるの? 今まさに食べたばかりじゃない」 
「せやで、うちは常識に囚われへんから気の向くまま食べる」
「そういうのって常識関係するの? 」
「天ぷら食べる。すみません、追加でこれお願いします!」

意気揚々と天ぷらを注文するこの友人は、本当に掴みどころのない、ミステリアスな人だ。


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