「旅の動機」
皆様は死に直面すること以上の恐怖を想像したことがあるでしょうか。
今回のテーマである「旅の動機」は、私が「死」以上の恐怖を感じてしまったことによって産まれたものであると考えています。
その恐怖の名は「本能の消滅」です。・・・・・は?ですね。(笑)
なぜこの結論に至ってしまったのか。全ての始まりは、私が「知性」に対して抱いてきた違和感によるものです。ではまず、私と知性の物語からどうぞ。
・知性と未来の可能性
私はこれまで両親に、ある程度の基準値を満たしているであろう教育を受けさせていただきました。幼い頃から、勉強やスポーツ、音楽などの様々な学びの場が与えられた私にとって、「学習する」ということは当たり前の日常でした。そう、これは何も前傾姿勢で取り組んでいた訳ではありません。ほとんど受動的学習です。しかし「小学校卒業までは辞めさせません。」という恐怖政治のもと、苦楽を経ながらも、何となく続けていました。
両親との約束だと言い張り、習い事を全て辞めてしまった中学生の私。「これで好きな時間に遊べる!自由だ!」と思ったのも、ほんの数ヶ月。これまで与えられてきたものは全てなくなり、特に将来の夢もない自分に気が付きました。「でも、ある程度幸せな生活を送れる大人になりたいなぁ。」
では、この漠然とした幸せとは何か。人間が求める幸福の形は、人間の数と同じだけあると思います。しかし、その中でも、普遍的な幸福として共通に認識されている形があるのではないでしょうか。例えば、幼い頃からの夢を叶えること、大企業に就職すること、結婚して家庭を築くこと、お金持ちになることなどが挙げられます。何もない私は、この中のいずれかの形に近づきたかったのです。「今の知性レベルで、大人になっていくなんてあり得ない。」
ここから、私の能動的学習が始まりました。幸せの形に少しでも近づけるように、その形の選択肢を増やすことができるように、自分の可能性を広げられるように。私の中で、未来の信用に値する「知性」は、日に日にその重要さを増していきました。
・「知性パラドックス」の誕生
日々学習することと向き合うこと数年、私の人生には大きな分岐点が3回ありました。まず1つ目は、高校受験。私は受験ギリギリまで塾に通い、勉強し続けました。両親や教師、誰もが勉強で受験すると期待していた中、サッカー推薦で私立に通うという暴挙。そして2つ目は、大学受験。高校でそれなりの成績を持っていた私には、指定校推薦の道がありました。しかし、これらを全て断り、1年間の浪人生活を宣言。最後の3つ目は、就職活動。「一生旅していたい。」の一点張りで、周囲の優しさを敵に回す。
今まで培ってきた「知性」をほぼ発揮させることなく、圧倒的遠回りの選択ばかり。これには自分なりの理由がありました。高校、大学受験の時の私には、「知性」に対して、何か言葉にできない漠然とした違和感を抱いていました。しかし、就職活動の時の私は、この違和感を言語化することに成功していたのです。
「「知性」によって無限の可能性が有限になってしまうのではないか?」
そうです。一定レベルの幸福を獲得するため、自分の選択肢に広がりをもたらすため。これらを掲げて培ってきた知性。目の前にあると信じていた無限の可能性と選択肢。しかしそれは、受験や就職活動を通して、またその先の労働や結婚などを思い描けば、ますます有限になっていきます。無限の広がりを持つと思っていた未来でさえ、知性はある程度、形のある有限な物質に変えることができてしまうと考えています。
「知性」に含まれた、「無限」と「有限」の両義性。ここに「知性パラドックス」が生まれてしまったのです。
・蘇れ、我が本能
求めていたものが知性になかったと感じた私は、もはや行き先がありませんでした。有限の選択肢として存在する可能性や幸福、もはや明日、明後日、遠い未来までもが脳裏によぎってしまう。そんな能力が備わっているであろう「知性」を、今までのように育てていくことに、ロボットとして自分が死んでいくかもしれないことに、強烈な恐怖を覚えました。
「もう有限に縛られて生きていくしかないのか?」
そう考えた時、私は両親から与えられて学習していた頃を思い出しました。そのほとんどが受動的学習であった中、いくつかは能動的学習があったのです。幸福や未来の可能性、その広がりを考えることもなく、なぜ能動的にとある対象と接合できたのか。
ここに、本能が残されていたのです。受動的学習でもなく、思い描く何かのためでもない、爆発的な行動力。しかし、私は知性で知性を磨き、さらに新たな知性を産み出し、有限に向かって歩いていました。知性の増幅と本能の消滅は比例しているかもしれない、と考えるほかありませんでした。
「無限の対象に矛先を向けることができる本能を失ってしまうのか?」
・「本能パラドックス」の誕生
もはや自分が人間を辞めてしまったかのように思えた私は、本能を消滅させたくないと考えるようになりました。私は本能を、可能性や選択肢が永遠の無限性を保つ状態であると定義しています。これは知性のように、有限に向かう対象が存在しないためです。私に必要なこと、つまり、知性の範囲外に身を置かなければならないということです。ここに「旅の動機」が産まれました。
培ってきた知性が、一瞬にして崩れ去っていく瞬間を目の当たりにすることができる旅。しかし、この旅でさえも知性に抗うことはできていません。無限の対象を求めるはずの本能を、知性によって構築しようとしているからです。それは、培ってきた知性で、崩れ去った知性を補おうとしてしまっているということです。これは二次的本能であり、後天的なものに過ぎないと考えています。
「本能」に含まれた、「無限」と「有限」の両義性。ここに「本能パラドックス」が生まれてしまったのです。
・先天的本能に触れる旅を求めて
私は以上で述べた2種類のパラドックスの間に先天的な、消滅から守るべき本能が存在していると考えています。知らない世界で、知性の崩壊と再生を繰り返し、本能が無限の対象を捉える。この行動を続けることで、死ぬ前に「人間で良かった。」と思えるのかもしれません。
未だに抽象的、観念的なものに留まっている本能ですが、そこに触れて、言語化することが私にとって人生の目標となっています。