旅の始りと戀の終り(1)



10月某日 月曜日

 けたたましいアラームで心臓が止まる。その0.1秒後に目が醒める。ディエゴのスマートフォンだ。午前4時半。両国のビジネスホテル。どんな音でも選べるのに何だってこんな災害警報みたいな轟音をセットするのか。目は確実に覚めたが、暴力的に叩き起こされたショックで動悸が激しい。

 ディエゴが浴衣の中に手を入れて来る。髭に縁取られた口のキスはいつも少し息苦しい。まだ半分寝てゐる体が彼の体重でひしがれる。いつものやうに始まる朝。しかし彼は途中で諦める。

「仕事の前は気になって駄目だね」

 珍しいことだ。

 この土日、彼は池畔の公園で催されたイベントの手伝いをしていた。私の泊まるこのホテルは会場に近い。それで彼も金曜からここに泊ってゐる。週が明けた今日、彼は厚木の職場へ出勤する。

私は明日メキシコへ渡航する。メキシコ各地を一月、カリブの島々を一月、そして短い休息を挾んで、どこかまだ決めてゐない場所へ三月。久しぶりの旅が幕を開ける。

 赤坂のラテンバーでディエゴと知り合ったのは三月少し前だ。夏の始まりの宵の口。店のテラスで、年齢も国籍も様々なラティノたちと日本人たちが飲んだり踊ったり語らったりしてゐた。桔梗色の空の下、街に浮かんだ空中庭園のやうな空間。ここにゐるだけで気分が浮き立つ。

 ディエゴは人好きなことこの上ない気さくで陽気なコロンビア人だ。カウンターに座り、ビュッフェプレートを平らげる間彼と並んで話した。私たちは日本語とスペイン語を交々使った。日本に十数年住んでゐる彼は日本語も流暢である。黒い無精髭は白人と違って強さうだ。彼は身の上のことを話した。キャンプやイベントが好きなこと、日本人と結婚歴があり高校生の息子がゐること、家族が世界の色々な国に分かれて住んでゐること、かつてはダンスを教えてゐたこと、川沿ひの田舎で育ったこと、馬に乗れること、等等。彼はバチャータが上手かった。誘われて何曲も踊った。他の人と話してゐると、彼が現れて呼びに来た。しばらく遊んで、彼と、その友人の日本人女性と、ボリビア人の男の子と、四人で連れ立って六本木へ流れ遅くまで踊った。終電を過ごしたので彼の車で送られ、求められるままに唇を重ねた。

 彼はどこに行っても誰にでも親しく話しかける。ビジネスホテルのエレベーターで出張中のビジネスマンに、浅草のホッピー通りの飲み屋で相席になった客たちに、公園の芝生で飲む若者たち、その傍で伸びてゐる中年男性に。旧友のやうに仲良く話す。彼の好きなところはさういふラテン人らしい人懐こさだ。そしてラテン人らしく、のべつ幕なしにキスして来るところも気に入ってゐる。では彼に戀ひしてゐるかといふと、そんなことはない。初めから今日まで、友人や兄弟に対する以上の気持ちは持てない。 

 今日一日で最後の雑用を片付ける。友人たちに土産を買ひ、住民票を(つひに)抜き、倉庫に収めそびれた物を収めに行く。「倉庫」といふのは所謂トランクルームなるもので、二畳ばかりの外置きコンテナに、どうしても処分出来ない本や衣類を詰めたのだ。いつも旅の前にするやうに。木曜、私はこれらわずかな物をまとめて倉庫へ運び、残りを処分した。所持品の整理にはいつものやうに、何日か徹夜せねばならなかった。圧倒的な量の荷物との、果てしない格闘。この狭いアパートにどうやってこんな大量に収ってゐたか見当もつかない。それから住まひへ戻り、まだ残ってゐる細かいガラクタを片付けるのにもう一晩徹夜した。そして金曜にやっとヤサを引き払ひ、このホテルへやって来たのだった。いつものやうに、数年分の暮しを疊むのにとへとへとに疲れ果てた。この週末は殆ど宿から出ることもなく寝て過ごした。

ディエゴを送り出したら二度寝して、店が開く頃徐ろに出掛けてらやう。

上半身裸の彼はいつもの癖で、あちこちうろうろしながら齒を磨いてゐる。スマートフォン片手に齒ブラシの隙間から

「16日の天気」

 と言った。

 16日?

 「今日月曜よね?」

 歯ブラシを銜へたままディエゴが応へる。

 「さう、16日の月曜日」

 16日は火曜のはずだ。今日は月曜で15日ではないのか?

 「今日が16日で月曜だよ」

 「ええっ!?ぢゃあ今日出発だ!」

 「ええっ!?」

 「16日って明日だと思ってた。今日出発よ!」

 「本當?何時?」

 「ええっと、15時25分、成田」

 今何時?4時49分。

 13時には空港に着いてゐたい。あと6時間余で何が出来る?

 何より時間が係るのはパッキングだ。そして光ルーターを返送する(それとも捨ててしまって2万4千円の違約金を払ふ?)。ラップトップを廃棄業者に送る(いや、もう電源が入らないPCのデータはそのままにゴミ箱に投げ入れる?或はキーボードの上から金槌で叩き割る?)。書類を溶解処理業者に送る(または、個人情報満載の反故紙をゴミ置き場に放置する?)。化粧下地を買ふ(素顔で出歩く訳には行かない)。重くて肩に食込む肩掛鞄を買替へる。住民票を廃止する。

 土産の購入は無論、倉庫へ行って帰って来る時間はないだらう。倉庫は多摩地区の、駅から徒歩25分の場所にあるのだ。(続く)

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