見出し画像

不定点観測(あるいは微睡みの人生)

明けまして入院

 正月、なんとなく学校の屋上から飛び下りた。校舎は白い。正月も白い。だから飛び下りたのかもしれない。病室で目覚めるまで夢を見ていた。
 起きると先輩が花束を持ってきてくれていた。小さな花だ。
「ラベンダーですか?」
 先輩は花束で思いきりぼくの頭を殴った。いい匂いがした。花じゃない、
「先輩の匂いがしました」
 と言ったらもう一度殴られた。
「今のでさらにハッキリしました。これは絶対先輩の匂いです」
 先輩はそれ以上ぼくの言葉に取り合わず、仏頂面のまま椅子に座り、ナイフで果物の皮を剥きはじめた。その果物はリンゴの形をしていたけれど皮はオレンジ色だった。
「これリンゴで合ってます?」
「ちがう」
「じゃあなんですか?」
「心の実」
「ほう? 知恵の実でも生命の実でもなく?」
「あんたに足りてないのは心でしょ」
「ワーオ」

 包帯ぐるぐる巻きで患者用の服を着たまま自動ドアを抜けると、病院の前に集まっていた記者たちが押し寄せてぼくにマイクやレコーダーを突きつけた。ぼくの飛び下りが最近話題の「心の隙間を埋める薬」を飲んだせいで引き起こされたのではないかという疑いをみんな持っていて、それを証明する言葉をぼくに求めていた。
 ぼくは答えた。
「たしかにぼくには心の隙間がありました」
 パシャパシャとフラッシュが焚かれ、記者たちは鼻の穴を広げて息を噴き出した。
「でもその隙間は薬ではなく、この人に埋めてもらいました」
 そう言って掌で先輩を指した。記者たちがいっせいに先輩の方を向いた。
「どういうことですか!」「あなたは心の隙間を埋める天才なんですか!?」「詳しくお聞かせ願えますでしょうか!」
 詰め寄る記者たちから先輩は逃げだした。去り際、振り返って殺気の塊でしかない目でぼくを見た。ぼくは笑顔で手を振り見送った。
 さてこれで誰もいなくなったと思ったら、一人だけ記者が残ってマイクを向けていた。薄いカーキ色のコートにシャーロックホームズみたいな帽子を被ったそいつは、よく見ると記者ではなく眠子だった。
「おまえ記者になったの?」
「ううん変装」
「知ってるけど一応確認しただけ。そろそろちゃんと何かになったら?」
「みぞれくんは何になるの?」
「ぼくはぼくだよ。そもそも変装して誰かになりたいと思ってない」
「変装をする人、がわたしなの」
「それってずるくね?」
「ずるくねえ」
 眠子はよくわからないやつだ。家では黄色い小鳥を白い籠に飼っていて、自分の手にとまらせて遊ぶ。黄色い小鳥なのにカナリヤでもインコでもないと言い張る。
「とりあえずコーヒーでも飲む?」
「病み上がりの体に大丈夫?」
「コーヒーは毒じゃないし」
「絶対毒だと思うな~」
 と言いながら、眠子はぼくよりコーヒーが好きだ。「これ今月の新作なんだよ~」と喫茶店の情報にも詳しい。
「で、飲んだんでしょ?」
 席についてしばらく無言で飲んでいると、突然眠子が訊く。
「は?」
「あの薬」
「ああそっち。まあ飲んだけど」
「じゃあやっぱり自殺促進薬なんだ。しかも飲んで直接死ぬんじゃなくて飛び下りて死ぬんだとたち悪いね」
「だからみんな証明したいんだろうな」
「そうだよ。早くそこの因果関係証明しないと、犠牲者がどんどん増えるじゃん。みぞれくんは立ち上がるべきだよ」
「本気でそう思ってる?」
「当たり前だろう」
「じゃあその服脱いで」
「こんなところで露出命令? ホテル行く?」
「いや、帽子とコートだけ」
 眠子は立ち上がり、コートを脱いで椅子の背にかけ、帽子は机の上に置くとまた座った。
「どう? ぼくはあの薬を告発すべきかな」
「んーどっちでもいいかな」
「やっぱり」
「嘘はつけないよね」
 つまり嘘をつけない眠子にとって、変装は気兼ねなく嘘をつくための手段なのだ。
「みぞれくんはその服似合ってるから着替えなくていいよ」
 ぼくは自分の体を見下ろした。緑色の患者の服だった。
「それは嘘であってほしかった」
「?」
 何も伝わっていないけれど、両手で頬杖をついている眠子は楽しそうだ。楽しそうなら何よりだ。
喫茶店で心地よくまどろむ冬の午後の時間。
飛び下りたおかげで、今日は平和な一日になった。


はい! 神様

両親はぼくの名前を考えるのをすっかり忘れていた。ぼくが生まれたらどんな習い事をさせようか、どんな友達を作ってどんな仕事をしてほしいか、学校は、制服はどこのがいいかな、そんな話はとりとめもなくしたらしいけど名前は考えていなくて、分娩室では「少し考えさせてください」と言い病室に移されてから窓の外を見、世界の終わりみたいな暗い灰色の空からみぞれが降っていたので「みぞれ」と呟いた。その話を初めて聞いたときぼくは、「神様が落っことした名前だな」と思った。
 だから宗教の人に「神についてどう思いますか?」と訊かれたとき「神? それならぼくの名付け親です」と答えて連行された。白いプレハブ小屋の事務所だ。応接用のソファーに茶色いスーツのおじさんが座って湯呑みの茶を飲み、机に置いた。机を挟んで向かいのソファーに座らされたぼくは、おじさんの後ろ、壁際に立たされているタヌキの置物を興味深く見ていた。
「君は自分が神の子だと名乗ったそうだね。詳しく聞かせてもらいたい」
「神の子なんて名乗っていません。ぼくの名前はみぞれです」
「みぞれ。それは確かに神の子の名ではないな」
「そうですよ。ぼくは人の親の子ですが、名前だけ神様からもらったんです。偶然。ここへぼくを連れてきた人たちは勝手に勘違いをしていたようですがそう言っても聞いてくれませんでした」
「そうか。他人の声に耳を傾けなさいと何度も教えているのだが上手くいっていないようだ。処罰しておきましょう」
「処罰とかは別に知りませんが……お詫びに一つ教えてください。神の子の名は何というんですか?」
「はい」
「? 名前は何と?」
「はい、というお名前なのです」
 ガチャ、と奥でドアが開いた。白い女の子がぬいぐるみを引きずり目をこすりながら出てきて、「呼んだ?」と言った。
「いえ、はい様。はい様のお名前をこの人に伝えていたところでした。紛らわしいことをしてしまい申し訳ございません」
「だれその人?」
 ぼくの目は女の子の背後の部屋の中を見ていた。木の床に赤い絨毯が敷かれ、奥では暖炉が燃えている。そして周りにはたくさんのいろいろな生物のぬいぐるみがある。人間もだ。裸の人間。どうもあれはぬいぐるみじゃなく本物の人間のようだ。こちらに背中を向けて横になっているけれど、あのうなじには見覚えがある。野球部の竹元くんじゃないだろうか? 全校で野球の応援に行ったとき、女子の間で評判だった竹元くんのうなじを双眼鏡で見た。しなやかな絶壁のようなうなじに汗が浮いていた。色黒でも色白でもなく、黄色人種って良いものだなとぼくは思い自分までも肯定されたような気がしたものだ。あのうなじは多くの日本人の目に留まるべきものだ。そんな思いで神様も竹元くんに野球の才能を授けたのに違いない。ならばここでぼくがすべきことはその後押しだ。竹元くんを解放してみせる!
「……れ。…ぞれ。みぞれ」
「?」ぼくの目がその声の主に焦点を合わせる。はい、という女の子がぼくを見ていた。「はいなんですか?」
「もうわたしの名前覚えてくれたんだ」
「はいそうですよ」
「わたしもみぞれって名前覚えたよ」にっこりと笑った。
「ありがとう。ぼくたち友達かな?」
「ともだちって何?」
「そこの部屋ではいと一緒にいるぬいぐるみと同じようなものだよ」
「うーん、じゃあともだち!」
「わかった。よろしくね。ところではいって漢字でどう書くの?」
「漢字? そんなこと考えたことなかった」
「これまで誰かに同じ質問をされなかった?」
「されなかった」
きっとみんな訊くのを遠慮していたんだろう。
「じゃあぼくが漢字をつけてもいいかな」
「ちょっと君!」これまで呆然としていたおじさんがさすがに口を挟んだけど、
「いいよ」とはいが言った。
「いいって言ってますよ、はい様が」
 おじさんは歯ぎしりをして黙った。
 ぼくは竹元くんと自分の身をトレードしてはいの部屋でぬいぐるみになった。竹元くんは部屋を出て行くとき振り返って、暖炉の前で裸になってあぐらをかいているぼくを見、すまない……って感じの痛切そうな顔をした。ぼくは笑顔で手を振った。大したことじゃない。監禁されてれば学校をサボれるしむしろラッキーだ。
 竹元くんははいのお気に入りだったようで、最初はいからは「みぞれ、タケモトと違ってちっちゃい」と文句を言われた。そうは言われても野球部で日々鍛えて大きくなった竹元くんと比べられては分が悪い。急に身長を伸ばすことはできないし、かといってこのまま黙っているとぼくの体ははいの命令で無理矢理引き延ばされて皮膚は裂け関節は外れ、ボロボロの敷物にされてしまうだろう。そうしたらぼくが死ぬということをはいはおそらくわかっていない。だからこう言った。「たしかにぼくは小さいけど、竹元くんと違ってはいに漢字をつけてあげられるよ」
「そっか!」
「そうだよ、思い出してくれた?」
「うん」
「最初の漢字は何がいいかな」
「最初の?」
「うん。せっかくだからいろんな漢字をつけよう。日替わりだ。毎日名前の漢字が変わる人なんて、他に誰もいないよ」
「ほんと?」はいの目は星でいっぱいになった。
 
灰。
「これは?」
「あそこの暖炉の火で何かを燃やすと灰になるよね?」
「あの灰かー!」
「そう。灰かむり姫」
「なにそれ?」
「シンデレラは知ってる?」
「知ってる」
「その人の別名だよ。プリンセスになる前のシンデレラはずっと働かされて眠るときも暖炉のそばで灰まみれになってたから、灰かむり姫って言うんだって。はいもずっと暖炉の近くにいるからぴったりだね」
「わたしもいつか外のお城に行って王子様に会えるんだ」

 盃。
「これは、ヤクザが兄弟になるためにお酒を飲み交わすのに使われる」
「兄弟になる?」
「本当は血はつながっていないから兄弟じゃない二人が、決められた儀式をすることで兄弟になるんだよ。その儀式っていうのが、盃を交わすこと」
「へえー、すごい! わたしとみぞれもする?」
「ぼくたちはまだお酒が飲める歳じゃないから、できないね」
「知ってるよ、ハタチになったら飲めるんでしょ。じゃあ、ハタチになったらしようね。約束」
「約束の約束か」と、特に意味のない言葉を呟いて、ぼくははいと指切りをした。

 胚。
「卵の中で生まれたばかりの命のこと。人間の場合はお母さんのお腹の中だね」
「わたしのお母さんはお母さんじゃなくて神様だよ」
「じゃあ神様のお腹の中だ。どんなとこだった?」
「覚えてない」
「想像してみて」
 はいは目を閉じた。「……海」
「海か」
 はいはうなずく。「空は水色。わたしは砂の上に座ってる。海は曲がってる。わたしの後ろには町がある。小さい町。家よりも、田んぼとか木とか山とかの方が多いの。どこからが山でどこまでが町なんだろう?」
「境目はないのかもしれないね。町って、人間が勝手に決めたものだから。神様のお腹の中じゃ、どこからどこまでなんて、考えなくていいんじゃないかな」
「じゃあ、山も町も、海も空もわたしも、みんな同じものなんだ」
「そうかもね」
「それが胚?」
「そうかもしれない。小さな胚が世界そのものなんだ。はいはすごいね」
「うん、すごい」

しばらくすると警察が突入してきてぼくは解放された。おじさんがはいを脇に抱えて逃げ、ぼくははいの部屋に取り残されているところを発見された。ニュースを見ている限り、あの宗教の人たちは割と警察にマークされて追われているようだ。それではいは各地を転々としているんだろう。本人は楽しい追いかけっこくらいに思っていそうだけど。いつかどこかでまた会いたいような気もする。
竹元くんからはお礼をもらった。運動場の隅で、リボンを巻いた四角いプレゼント用の箱を開けると、中には枯れない白銀の大きな花が一輪、首を切られて入っていた。照れくさそうな竹元くんの笑顔を見ながらなんとなくぼくは、そのうちこの人にも監禁されそうだな、と思った。


サメと幽霊

 紫色の海をイルカのように飛んで泳いでいる、あれはサメだ。

 学校行事で水族館へ行くと、人間の手の届く陸上まで体を差し出したイルカをみんなこぞって撫でたがる。ぼくは離れたところで冷たく見ていた。あれがサメだったら容赦なく手首を噛み切られている。
「みぞれくんはいいの?」と隣に立っている眠子が訊く。
「ぼくはサメの方が好きなんだよ」という返事を待たずに眠子はリコーダーを吹く。
 みんなは歓声を上げていて誰も眠子のリコーダーに気づかない。その光景はぼくにとって見慣れたものだった。けれどいつもとは少し違っていた。普段、授業中の教室でも眠子は突然立ち上がってリコーダーを吹き鳴らすことがあったけれど、そのときはみんな気づかないフリをしているだけだ。でも、そのフリは完璧過ぎて初めてその現場を見た人には本当に誰一人気づいていないように、眠子が誰にも見えていない幽霊であるかのように見える。みんなが協力して眠子を幽霊にしてくれている。
 実際、眠子はよく幽霊と遊んでいた。晴れた冬の日は特にそうだった。晴れているけどちらほら雪が降っている、という日がこの町には多くて、眠子が幽霊と遊ぶのはそんな日だった。雪の積もった街路の上、宙で赤ちゃんを抱きかかえるような動作をしている眠子。傍目にはゆっくり落ちてくる牡丹雪と戯れているようにしか見えないのだけど、眠子の目には幽霊が見えていた。
「なんで幽霊は、冬によく出るの?」とぼくが尋ねた。
「白いから。雪と仲がいいの」
「見分けにくそうだね」
「雪が降ってくるところ、じっと目を凝らしてたら見えてくるから、やってみて」
「……見えないな」見えたとしても、それは思い込みだろう。「ぼくには才能がないみたいだ」
「あきらめ早い」
「いいよ見えなくて」
「美人もいるのに」
「美人なら先輩がいるから十分だよ」
「先輩そっくりの美人もいるのに」
「それ、先輩のお姉さんじゃないかな」
「ふーん。真っ赤なワンピース着てるよ」
「血の色かな。この辺で撥ねられて死んだんだ。……っていうかいまそこにいるの?」
「うん」
「そっか。それなら」
 先輩の家のインターホンを押したら、グレーのセーターを着た先輩が出てきた。
「地味な服でも綺麗ですね、先輩」
「何? 用ないなら帰って、勉強忙しいから」
「お姉さんを連れてきました」
「……は?」
「こいつは眠子っていって、幽霊が見えるんです。で、いまお姉さんの幽霊と手を繋いでます。お姉さんは赤いワンピースを着てるけど、袖がなくて、スカート丈も短いから、外に立たせてちゃ可哀想です。もし先輩に人の心があるのなら、中に入れてあげてください」
 こうして初めて、ぼくは先輩の家に上がった。和室に通されて、お姉さんも含めて四人で、一つの四角い木の机を囲み、畳に座った。
「お姉さんが交通事故で亡くなったのには、わけがあるそうです。ご存知ですか?」
 先輩は首を横に振った。
「実はね、お姉さんは事故の前にあるものを見たんです。 何だと思いますか? ……サメです。その日もちょうど今日のような雪の日でした。白い歩道に立っていたお姉さんは車道のアスファルトの上に、サメの背びれが出ているのを見たんです。海のサメが水面上に背びれだけを突き出していることがあるでしょう、あれを見たら普通の人間はサメだ! と思って避けますよね。つまりそのときお姉さんの前に現れたサメは、背びれを出すことで、轢かれるからこっちへくるな、と警告していたんだと思います。ところがお姉さんは、サメが好きだった。背びれを撫でようと、車道へ飛び出さずにいられなかった……だから、悪いのはお姉さんでもサメでも運転手でもありません。運命のめぐり合わせの悲劇だったんです」
 ぼくが話し終わると先輩はふいに立ち上がり、二階へ行って、あるものを取ってきてぼくたちの前に置いた。それは一冊の赤い手帳。お姉さんが生前つけていた夢の絵日記だった。日付は、二月十六日で途絶えている。ページの上半分に、薄くクレヨンで絵が描いてあった。下には「サメとあそんだ」と書いてあったけど、絵に描いてあるのは、太陽輝く海の上を、シャチにまたがって拳を突き上げて飛んでいるお姉さんの笑顔だった。

 また夢の白い砂浜に座って紫の海を眺めていると、隣に眠子が座った。
「断りもなく座るなよ」
「いや」
「は?」
「断ったよ」
「そういう意味じゃねえよ。日本語勉強しろ」
「いや? わたしが横に座るの」
「今日現実でも一緒にいたじゃん。夢までついてくるなよ」
「いえーい」携帯のカメラを内側に向けて、勝手にツーショットを撮る。
「夢で写真撮ってどうすんの」
「次の夢でも残ってたらいいね。アルバム作ろ」
「現実で作りゃいいじゃん」
「夢だからいいのよ。消えるか残るかわかんないから」
 眠子は座る前にスカートの尻をはたいていた。普通は座って立ち上がるときに砂を落とすため尻をはたくものだけど、眠子は先にそれをやってしまったから、もう永遠に立ち上がることができない。ぼくはそれがわかっていたので立ち上がって尻をはたいた。
「行っちゃうの?」と眠子がぼくを見上げる。
「行くよ」とぼくは答える。
これで「行かないで」って言うならぼくは座ってやるつもりだったけど、眠子は前を指さして、
「サメが見てるよ。イルカみたいな目で」
見るとほんとに、海の真ん中、波に耐えながらサメがそこにとどまり、うるうるした目をじっとこちらへ向けている。深い青と黒の、深海の玉みたいな目。情緒や思慮を感じさせる。水族館の水槽に閉じこめられていたジンベエザメの、見ているだけで体の芯がゾクゾクするブラックホールみたいな光のない目とは全然違う。
「おまえは」とぼくはその目に向かって言う。「サメの皮を被ったイルカだな? ぼくの海にいたサメを殺して皮を剥いで……そんな本性を隠して、水族館ではみんなの人気者か! おぞましい奴め!」
 キュッキュッ、とすぐそばで変な音がした。隣の眠子がイルカの姿になっていた。ツルツルの肌が濡れてなまめかしく輝いている。
「好きなら信じてあげてよ」とそいつが言う。「あれはサメ、ここにいるのがイルカだよ」
「おまえのようなイルカがいるか」
 キュッキュッ、とそいつが音を立てた。たぶん笑っているんだろう。


心の隙間 サンプルケースその①

正直に言ってこの時代は病んでおり、ぼくは一学生ながらそのことをいつも気に病んでいるわけではない。でもたまにちょっとは気になることがある。
 たとえばぼくの同級生に向井くんという人がいて、彼はお人形で自分の心の隙間を埋めようとしている。一メートルくらいある銀色のビニール製の人形で、まあ女性をかたどったものなのだけど、最初は風船みたいにぺちゃんこで、ちょうど女性の口に当たる部分から息を吹き込み膨らませることで人の形になる。これは神様の真似事をしているみたいで楽しいかもしれない。
 人形に空気を入れ始めてからの向井くんはよく鏡の前に立って白いTシャツを着た自分の姿を確認するようになったし、道端で一人畑仕事をしている紫色のもんぺを着た小さなおばあさんがいれば行って耕すのを手伝うようにもなった。かわりばんこに畑仕事をして時には雑談も挟み笑いあっている二人の姿を、黄色い太陽が上から見守っているという寸法だ。このせいで向井くんは平然と学校へ遅刻するようになったけど、本人は先生の前に立っても晴れ晴れとした笑顔だし、おばあさんからは学校へお礼状が届くから先生は彼を叱るわけにも行かない。そんな状況を見かねた友達が向井くんにこう言った。
「おまえ、世のため人のためもいいけど、勉強もしねえと自分のためにならんぞ」
「自分のため? 何が自分のためになるかとか、わからんでしょ。少なくとも俺は、良いことをしてるよ。良いことの報いはいつか必ずやってくるって、ばあちゃんは言ってたし、お天道様もいつも俺を見てくれてる。お前さ、普段お天道様にしっかり顔向けてることあるか? 太陽は眩しいから直視するなって、あれ嘘だぜ。本当に恥ずべきことがなかったら太陽を見ても目を焼かれることはないんだ」
「お前」さっきから自分を見ている向井くんの目が灰色がかっていて、どこを見ているのかわからないことに友達は気づいた。「俺の顔見えてる?」
「見てほしいのか? お前が見てほしいって言うなら、ちゃんと見るよ。お前のために」
「いや、だから、見る見ないの話じゃなくて、見えてるのかどうか訊いてるんだろ」
「違うよ。わかってないなあ。見えてなくても、見るんだろ。俺にはそれができる」
「……あの人形は、どうした?」
「聖子なら、仏壇に立てかけて、毎日拝んでるよ」
「罰当たりな」
「何がだ。祈りもしないお前よりマシだろ?」向井くんは笑った。
「なあ、でも……やっぱりお前いま、変な方向に行ってると思う。あの人形だって、心の隙間埋めるために始めたんだろ? でもさ、心の隙間って、あるのが自然じゃね? 無理に全部埋めるのって、なんかさ……」
「お前も、人形買ってみたらいいよ。わかるから」
 これ以上の説得は、無駄だった。向井くんはその後もろくに学校へ行かず、親から働けと言われて、働きだして、自分がいろいろなことに責任を持てる歳になったら、借金の連帯保証人になって、ハメられた。どこだかわからない真っ暗な空間、スポットライトの下に椅子に縛り付けられた向井くんがいる。前歯が出ていて、目はくりくりと丸く、ビーズのように輝いていて、何を考えているのかよくわからない。
「お前、今何を考えている?」と、闇の中から声が尋ねた。
「そこにいるのは神様ですか?」
「神様? ハハ。まあ、そう言われることもあるな。お前みたいなやつに」
「今まで何人を不幸にしましたか?」
「俺は人を不幸にするのが趣味なんじゃない。自分の仕事をやってるだけだ。堕ちていくのはその人間の意思だ」
「では私はいま堕ちていこうと望んでいるのですか?」
「そうなんじゃないか? わからないが」
「私にもわからないんです」
「裏切り者を恨んではいないのか?」
「いえ、彼のためになりましたから」
「だが、お前がこんなことになっているせいで、お前の家族にはきっと迷惑がかかるだろう」
「それは、たしかにそうかもしれません。そうおっしゃるなら、ここから帰していただけませんか?」
「それはできない。決まりだから。全部を取ることはできないようになっている。何かを選ぶことは、何かを捨てることだ。お前はこれまで自分ばかりを捨ててきた。そうしてここにいる。それをお前はどう思う?」
「仕方がないことだと思います」
「あきらめか?」
「はい。否定はしない。肯定もできない。でもあるべきところに収まったのではないでしょうか」
「わかった。お前がその考えなら、俺は心置きなくレバーを引こう。……と言いたいところだが、お前のような諦めきった人間を殺しても、ショーにならんのだ。俺はお前をどうすればいい?」
「あなたは神様なのに、何もご自分では決められないのですね」
「神とはそういうものだよ。何も選ばないかわりに、何も失わない。だから完全なんだ」
「それって、つまらないですね」彼は不敵に笑った。
次の瞬間、巨大な赤いボクシンググローブが降ってきて、椅子もろとも彼をグシャリと潰した。


心の隙間 サンプルケースその②

 野球部の竹元くんに呼び出されて運動場の隅へ行ったら、そこで待ち構えていた竹元くんに礼をされながら一輪の花を渡された。多分に野原で摘んできたっぽい、濃いピンクの花だった。運動場を囲む緑の網の外に白いブラウスの女子が三人、ピラミッドみたいに密集してこっちを見ていることにぼくは視界の隅で気づいていて、ああついに見つかった、明日には噂が広まるだろうなと心の中でため息をついた。
 実を言うと竹元くんから花をもらうのはそれが初めてではなく、五回目で、花の色は毎回変わった。一度は無視して帰って、途中でゲームセンターに寄ったらそこに竹元くんが待っていて、もし寄り道をせずに家に帰っていたらきっとぼくの部屋で待っていたんだろうなと思うと、おとなしく学校で花を渡されておくべきだという結論に至った。
 それまで花を受けとるだけで何も言わなかったぼくはついにこの日言った。「あのさ、竹元くん。普通男子が花もらって、嬉しいと思う?」
 竹元くんは顔を上げて、あからさまに狼狽し、「それじゃあ、ミミズがいい? カエルもあるよ?」両方のポケットから生きたミミズとカエルをそれぞれ取り出した。
「……はあ。単刀直入に訊こう。きみはぼくにどうしてほしいの?」
「どうして……?」今度は顔を赤らめて、もじもじしだした。向こうで他の野球部の人が竹元ー! と叫んでいるけど、まるで聞こえていないみたいだ。
 竹元くんは結局、いつまでももじもじしていてぼくに返事ができないので、もじもじさせたまま置いて帰った。その後ぼくが友達の家でゲームをして暗くなった、たぶん夜九時過ぎくらいの帰り道、人のいない通りの電柱の灯りの下を歩いていると、竹元くんがバットでぼくの頭を後ろから殴り、気絶して力の抜けたぼくをぬいぐるみのように引きずって自分の家へ連れ帰った。
 目を覚ましたら、空っぽの水色の浴槽の中で裸だった。頭がズキズキ痛む。左を向くとすりガラスの窓があり、その向こうは昼間の明るさだ。
「おはよう」と声がしたので反対側を向くと、竹元くんが風呂に入ってきて後ろ手に戸を閉め、浴槽の縁に座った。
「気分はどう?」
「頭が痛い」
「ごめんな、こいつがやったんだ」木のバットを撫でさすりながら、竹元くんは言った。にやにやしながらぼくを見下ろす目はいやらしかった。
「野球じゃなくて人を殴るのにバットを使ったんだ?」
「野球に使うバットは銀だ。でも俺が好きなのは木のバットなんだ。わかる?」
「どうして?」
「俺の好きなゲームで、主人公の武器が木のバットなんだ。モンスターもエイリアンも全部木のバットで倒すんだ。野球なんて、くだらないよ。怪物が出てこないから仕方なくボールを打ってるだけだ。悪の帝王が復活して世界に魔物がはびこるようになったら、これまで野球という偽りの使命のために身をやつしてきたすべてのバットたちが、真の姿を取り戻すんだ」
「モンスターと怪物と魔物って違うの?」
 竹元くんは目をぐるぐるさせて考えた。ばかみたいな顔だ。ぼくはすっかり幻滅して、「もういいよ」とため息をついた。竹元くんと関わっているとため息ばかりついてしまう。普段ぼくにため息をついてばかりいる先輩の気持ちが少しだけわかった。でも先輩にため息をつかせるのはぼくのライフワークだからやめない。
「今俺以外の人のこと考えてた?」竹元くんが鼻をヒクヒク動かしながら瞳孔を開いた目でぼくを見ながら言った。
 そもそもきみのことを考えてる時間なんて最近じゃ一週間に一分もあるかないかくらいだよ、と口に出したら今度は頭を完璧に叩き割られそうなので黙っていた。
「みぞれは魔物だよ」ナチュラルにぼくの名前を呼び捨てにして、竹元くんは言った。「怪物だよ。モンスターだよ」
「ぼくはそんな危険じゃないよ。弱いし」
「ほかの人間にとってはそうかもしれんけど、俺にとっては魔物だよ。怪物だよ。モンス」
「だから殴って閉じ込めてるの?」
「うん」操り人形みたいにガクン、とうなずいて、ヤク中みたいに歯を見せて笑った。
 もしかして、とぼくは思う。ぼくのせいで彼はこうなってしまったのか? もしかしなくても、たぶんそうだ。悪いのはぼくなんじゃないか?
「竹元くんって、女子を好きになったことある?」
「ないよ。あるわけないだろ。……みぞれはあるの?」
「どうだろう?」
「……なんて言ったっけ、ほら、あの人」
「誰?」
「みぞれの心の隙間を埋めた人」
「……」
「みぞれ、あの人のことが好きなのか?」首を傾けて、ぼくに訊く。
「違うと思うな」
「あの人の皮を剥いで俺が被ったら、俺を好きになってくれるか?」
「嫌いになるよ」
「どうして!」
「もう、疲れたよ。ちょっと一人にして、寝かせてくれ」
「さっきまで寝てたのに」
「いい? 今からぼくが目を閉じたら、風呂の蓋を閉めて。そしたら次起きたときには、ぼくがきみのこと好きになってるから」
「本当か?」
「本当だよ。そういう魔法なんだ」
 かくして、ぼくはまた眠りにつき、次に起きると夜だった。起きるというか起こされた。竹元くんではなく、二人の警察官に。見ると警察官たちは辺りにたくさん入り込んでいて、向こうで竹元くんが床に抑えつけられ、口から泡を吹きながら叫んでいた。まだ夢の続きなのかな、と思った。そのうちみんなで外へ出て、竹元くんは警察官に連行されながら、必死でこっちを振り向き叫ぶ(あいつは、俺のことを好きになっているんだ! 起きたらそうなるって約束した! 本当だって、言ってたから約束は破らないはずなんだ!)、その声もぼくにはぼわぼわと深海にいるみたいにしか聞こえない。警察官に促され竹元くんとは反対方向へ向かったぼくは気づけばまた記者たちの前にいて、何か喋っていたけどフラッシュが眩しくて自分の声が聞こえない、ただ口が小さく動いているのだけ見える。
 ようやく家に帰ったら食卓の灯りだけついていて、父さんが座って顔の前に新聞を広げて読んでいる。「ただいま」と言ったら父さんは新聞を下げ……そこに現れた顔は父さんではなく、父さんが普段着ている灰色の着物に身を包み、黒縁眼鏡をかけた眠子だった。
「今日は友達の家の浴槽の中で夢を補給してきたんだってな? 金魚みたいな息子だ」と、父さん眠子が言う。
「父さんの変な喋り方をよく再現できてるよ」ぼくは乾いた拍手を送った。
 父さん眠子はニヤリと笑って、「お前も昨日のお前の皮肉屋さんな感じをよく再現できてるよ」と言った。
「母さんはどこ行ったの?」
「父さんが平らげてしまったよ」口の周りをぺろりと舐める。
「二階か」ぼくは天井を見上げた。「で、本物の父さんは? 眠子」
「眠子ちゃんならさっきおやすみなさいの電話をかけてきたよ。いい子だねパパが狼だったら食べちゃいたい、そして洞窟のような大腸の中で眠らせるんだ。彼女の頭の傍には小さな白い花が一本咲いていることだろう」
「服を脱がさなきゃダメか」
 ぼくが眠子へ近づこうとすると、
「服くらい脱いでやれるさ。それどころか皮膚だってお前のためなら一皮も二皮も脱ぐよ。パパは父さんだからな。でも、その前にお前の夢の話を聞かせておくれ? 父さんはお前の夢の話が大大大好きなんだ。お前の夢には父さんが服を脱ぐだけの価値があるとお前の生まれた時から思っているよ」
「無価値ってことね」
 それじゃあ、無価値な夢の話をしようか。


ぼくの夢の国

 そこにはぼくがいないこともあるけれど、ぼくの国だ。
たまにさすらいの旅人のふりをして国民に訊いてみる。
「国王のことを覚えてる?」
 太陽の下、忙しそうに畑を耕していた農民は鍬を止めると顔を上げてぼくを見、額の汗を拭って「知らねえな」と言った。
「王国なのに国王を知らないなんて不思議だね」
「ここは不思議の国だからな。人参には足が生えやがって、走って蕪の子供たちを追いかけて食っちまうし、ちょっと目を逸らしたら畑にゃ育ちすぎた胎児の死体が転がっていて心を蝕むし、散々だよ」
「王宮に苦情の電話を入れてみたら? 優しい国王なら対応してくれるかもしれないよ」
「ダメだよ、電話線は王の広間の周りをぐるぐる囲んでるだけだって言うし、それが茨の壁のようになっているせいで誰も玉座までたどり着けねえ。しかもその玉座はもうずっと空っぽなんだ」
「じゃあ、ぼくが国王を取り戻してあげるよ。ぼくは流れ星のような余所者だから、そういうことができるんだ」
 そしてぼくは久方ぶりに玉座で目を覚ます。
 三時間くらいしたらようやく大臣がやってきて、「王様、急いでご支度を。今日は三十七時から大広間で舞踏会です」
「三十七時っていつだっけ? それに、大広間の舞踏会なんてありきたりだな。薄暗いダンスホールを作ってよ。真っ暗闇のスポットライトの下でスリーピースのロックバンドにポップな曲を演らせるんだ」
 ぼくは国民からの苦情のことをすっかり忘れているようだ。
「承知しました」と大臣は引き下がる。そうやってぼくの言うことをなんでも聞くからダメなんだぞ、とぼくは思う。
「王様は天邪鬼で私にそっくりです」と灰色の道化が言う。暗い空間、ダンスホールを作るためにみんなあくせく働いている中、道化は高いところに座り足をぶらぶらさせてニヤついている。道化の体は貧弱だ。パンツ一丁で胸には乳首がない。頭には垂れた耳みたいな道化用の帽子を被っていて、顔には仮面をつけているように見えるけれどそれが素顔だ。仮面のような顔になるため目玉をえぐり取ってかわいい子犬にくれてやり、目玉のなくなった後そこには二つのくぼみだけが残った。口も常に薄ら笑いを浮かべていて本当に仮面みたいで、真の表情を読みとることは誰にもできない。
「いいご身分だな。国王であるぼくより高いところにいて」
「道化は常に世俗を離れたところにおらんといかんのです」
「アウトサイダーか? ぼくは国王だけどアウトサイダーみたいなものだから、お前なんかほんとはいらないんだよ」
「でも私がいなくなったら寂しいでしょう?」りんごをかじりながら言う。透明の汁が滴り落ちる。
「国王のぼくが一声かければ、お前の首をギロチンにかけられる」
「私は道化ですから、首が落ちても笑っていますよ。首を小脇に抱えてあなたのところへ戻ってきます」
「それなら全身を燃やしてしまおう」
「灰になっても、蘇りますよ。灰色の体ですから」
「なにを考えても無駄ってわけか。ぼくは国王なのにな」
「負けを認めますか?」と道化は言って、五枚のトランプを扇子みたいに持った。「ババ抜きをしましょう。ジョーカーを引き当てたら負けです」
 ぼくは上へ手を伸ばして一枚引いた。そしてトランプを裏返した。
 花畑で目を覚ました。辺りを埋め尽くしているのは血吐き花だ。遠いどこか異国で流され大地に染み込んだ血を土から根へ、根から茎へ、絶え間なくドクドク吸い上げ、一生窄まった蕾のまま開ききることのできない俯いた花の口から吐き続ける。なだらかな丘なので吐いた血は下へ流れていって、その先で海に飲まれる。だからこの国の海はいつも紫色をしている。
 海辺まで下りていくと波打ち際に傷だらけのサメが倒れてピクピクしていた。そしてサメの傍に銛を持った女が立っていた。先輩のお姉さんだった。
「ようこそぼくの国へ」とぼくが言った。「あなたはサメと仲良しなんだと思ってました」
「仲良しだからやっちゃったの。誰も怖がってこの子に近づかないから……」
「慈悲をかけたつもり? その気持ちは伝わっていないと思うから、傷口に口づけでもしてあげたらどうですか?」
「それって国王命令?」
「後輩命令です」
「きみは私の後輩じゃない」
「あなたはぼくの先輩のお姉さんなんだから、巡り巡ってぼくの先輩でもあるでしょう?」
「そんなに巡らなくてもね。ときに、妹は元気?」
「ぼくが元気にします」
「エッチな方法で?」
「そんなことは……」
「妹を元気にしてくれるなら、命令聞いてあげてもいいよ」
「だから言われなくてもしますって」
「そう。私も、きみに命令されずともこうするつもりだった」
 しゃがみこみ、サメの体に手を添えて、目を閉じ額に口づけした。生臭そう。みるみるうちにサメの体から色とりどりの花が咲き乱れ、もはやそれはサメではなく、巨大なフランスパンのような花の塊になった。
「ああ、ぼくの好きなサメが」
「大丈夫だよ、王様。この花の繭のなかで、サメはもっとすごいものに生まれ変わるから」
「それってなに?」
「生まれてからのお楽しみ」
「それまでぼく、生きてるかな」
「わからないね」
 また目が覚めたら、家だった。学校へ行って、昼休み視聴覚室へ行ったら暗幕に仕切られた部屋の中に先輩が座ってパソコンをしていた。
「先輩。お姉さんは、花の繭の紡ぎ人になっていましたよ」ぼくは気をつけをして、先輩の横顔へ語りかけた。「死んだものを繭で包んで、別のものへ生まれ変わらせるんです」
 先輩は横目でぼくを見て、「他の何を生まれ変わらせようが、わたしには関係ない。どうせ、姉さん自身は蘇らないんでしょう」
 やっぱり先輩は賢い。賢いからけっしてぼくのものにならない。ぼくはそんな人が好きだ。
 その想いを伝えたら先輩は本を胸に抱え部屋を出て行った。
 こうしてぼくの思春期の恋は終わった。


良い子は眠り、悪い子は起きて家を出る

 眠子は机の上に頬をのせて、すっかり眠りこんでいた。とっくの昔にぼくは眠子の顔から眼鏡を外しておいたので、もうここに父さんの面影はなく、あどけないただの眠子の雪見大福みたいな寝顔が転がっているだけだ。
 ぼくの夢の話を聞きながら眠ることで、眠子はまたぼくの夢に侵入するつもりだったんだろう。安心して話の途中で眠りに入ってしまったから、最後だけ現実の話にすり替えたことには気づかなかったはずだ。幸せそうにむにゃむにゃ言っている眠子はたぶん、自分自身の夢の中にいるのをぼくの夢だと思い込んだ、その誤解の迷宮の中で眠り続ける。
ぼくの勝ちだ。
「女の子相手に情けない息子だ」
台所の棚が開いて、中には膝を抱えた父さんがいた。
「そんな風に思うならぼくを娘に産めば良かったのに」
「先輩に告白はしたのか? 夢の中でだけか?」
「何が言いたい」
「眠子ちゃんがかわいそうだ。私は涙が出てくる」ピエロの顔に描かれたような涙を父さんは流した。
「じゃあ眠子を娘にすればいい」
「そうしよう」
 こうして我が家の娘は眠子になり、ぼくは家を追い出された。家の門の前には子犬がお座りしていて、ぼくを見上げて尻尾を振っていた。
 犬も父さんも馬鹿だ。犬はぼくが主人に値しないろくでなしだって気づいてないし、父さんは眠子がいつ目覚めるのかをぼくに確認しなかった。
「おやすみ眠子」犬の輝く黒い瞳を見下ろしながらぼくは言った。


PSYCHE

 従兄の家へ行ったら玄関の鍵が開いていたから勝手に入った。奥の部屋では従兄が白い箱みたいな古いパソコンの前で椅子にあぐらをかいていて、マウスをカチッと鳴らした後、
「泥棒か? それとも、みぞれか?」と言った。
「ぼくだよ」
 くるっと椅子が回って、従兄がぼくを見る。ぼくも従兄を見る。長い前髪、白い肌。相変わらず、小学生みたいな体型をした従兄だ。
「おまえ、泥棒とオーラが似てるからさ、わかりにくいんだよ」
そう言いながら、従兄は頭の斜め上を横切った黄色い蝶をつかまえて口に押し込んだ。
もぐもぐしながら、「見えた?」
 ぼくはうなずいた。
「そうか。じゃあ今のは本物の蝶か。珍しいな。そして苦い」
 べー、と従兄は舌を出してみせた。蝶はぐちゃぐちゃになっていた。
「幻覚の蝶は苦くないの?」
「ものによるかな。甘いのもいるし、苦いのもいる。ところでおまえは本物か? その可能性を忘れてた」
「本物だよ」
「じゃあ本物だ。おまえの場合は幻覚だったら『偽物だよ』って答えてくれるからな。おまえはいいやつだよ。昔からそうだ」
「そう言うのは兄ちゃんだけだと思うけど」
「じゃあ、周りが間違ってるんだ。おまえの周りは幻覚だ」
「んー。どうせだったら、ぼく一人だけが幻覚だったらいいのにな」
「そうか、わかるよその気持ち。俺も学校いたころはそうだったから」
「いじめられてたもんね。ぼくはいじめられてはないけど」
「いいぞいじめは。汚え野良犬になったみたいで楽しい。笑って口からヨダレ垂らしてた」
「楽しかったのになんで行かなくなったの?」
「こっちのが楽しいから」
「そっか前向きだ」
「そうだぜ世界は希望だらけなんだ」
 従兄は笑って窓の外を見た。窓は全面すりガラスで、ぼくには外の景色が見えないけれど、従兄には見えているんだろう。自分の頭の中にしかない外の世界が。そのときの従兄の穏やかな笑顔がぼくは好きで、一生忘れなかった。
 夜になったら寝袋を貸してもらってその部屋で寝た。従兄は幻覚を食べて生きているので家の中に食べ物はなく、ぼくは外でカニを買ってきて食べた。夜中、何度か目覚めたけれど、従兄はずっと椅子に座ってぼくに背を向けパソコンを使っていた。たぶん寝ることもないんだろう。でも朝の光の下で見ても従兄の眼の下にクマはなかった。
「兄ちゃんは進化したんだね、薬のおかげで」
「PSYCHEってやつなんだ。俺がたどり着いた最高傑作だよ」手のひらにそのピンク×ミント色の錠剤をのせて見せた。
「女子受け良さそう」
 学校の廊下では女子が暗い紫の巾着袋からPSYCHEを取り出して友達に渡し、友達はそれを上から流し飲みした。すると二人ともそっくりの笑顔になった。
「おまえにも何かやろうか?」学校から帰ってきたぼくへ、従兄の背中が言う。「あの前やったやつとか」
「あれはね。結局先輩の愛には勝てなかった」
「じゃあ、やっぱPSYCHEにしとくか」
「それ飲んだら、心の隙間は埋まるの?」
「完璧に」
「やっぱり、兄ちゃんにも隙間はあったんだ。おじさんとおばさん死んで」
「それはまあな」
「……ずっとパソコンで何してるの?」
「世界を滅亡させるためのプログラムを打ってる」
「そんな古いパソコンで?」
「これ親父の形見なんだ。歴史と想いが詰まってるから最強なんだよ」
「兄ちゃんはさ、その辺、真人間だよね」
「俺はいつでも真人間だよ」
「でも心の隙間が埋まったら、何もする気が起きなくなるのかと思ってた」
 女子二人が笑顔で手を繋いで、学校の屋上から飛び下りた。死体にたくさんのフラッシュが浴びせられた。会見で深々と礼をした校長の禿げ上がった頭頂部にも。
「兄ちゃんそろそろ、警察に見つかるんじゃないかな?」
「かもな。その前にどっか行っとくか。俺の思い出、おまえん中に残しといて。そしたら俺、多分刑務所でも大丈夫だから」
「首切って死んだりしない?」
「するかもしれんけど、俺が言ってる大丈夫ってのは、そういう意味じゃない。自殺するにしたって救われて自殺できるってこと」
「わかったよ。約束する。墓も立てる」
「犯罪者の墓なんて立てたらおまえ、道で石投げられるよ。それはダメだ」
「別にいいけどな」
「俺が嫌なんだよ」
 ぼくは感動した。


トレイン・ロックンロール・フェスティバル

 従兄の運転する車に乗り、夜のドライブへ向かった。BGMは六十年代のロックンロール、当然二人とも免許は持っていない。葉っぱのトンネルみたいな山道を、ガタゴト揺れながら、二人で大笑いしながら走るうち、夜空にリュウグウノツカイみたいな赤い花火が上るのが見えた。
 そしてぼくたちは、祭の会場についた。草原の上にポツポツと灯りもつけずに屋台が立ち、お面を被った子供や浴衣のカップルが行き来している。空にはずっと花火が上がっているけれど、見ている人はほとんどいない。
 会場の奥まで進んでいくと打ち棄てられた機関車の車両があり、真っ暗な車両の中で人は未来や過去の忘れ物と出会う。ぼくの前に現れたのは黄緑色のトリケラトプスだった。二歳くらいの頃、おもちゃ箱の中で見つけて以来ぼくの頭に棲みついていたやつだ。起きてるときも夢の中でも一緒ですくすく育っていたけれど、いつからかいなくなっていた。本当に仲良しの友達がいなくなったら、裏切られた、と思うだろう。でもぼくに裏切られた記憶はなかったから、ぼくの方が忘れて、裏切ったんだと思う。
「大きくなったね」とそいつの顎や角を撫でながら、こんなことをする資格はないとぼくは思っていた。そのぼくの後ろめたさをトリケラトプスはきれいな瞳で静かに見つめていた。
「ぼくが将来会社で働いてて辛いとき……一人だけ残業で職場に残ってるときとかさ、そばにいてくれたら嬉しいな。勝手だけど。勝手だよね。ごめん」
 トリケラトプスは返事をせずにぼくを見ているだけだ。
 従兄は闇の中で、赤い着物を着た芸者に出会っていた。芸者はトーテムポールのようにそびえ立っていて、従兄よりはるかに大きい。従兄は芸者に対してなすすべがなかった。いくら薬を取り出してみせても見向きもされない。学校の女子とは違うみたいだ。ナイフで刺しても着物が赤いせいで血が出ているのかどうかもわからない。そして一度刺したナイフは引き抜こうとしても抜けず、あたふたしている従兄の頭を芸者の手がわしゃわしゃとかき乱す。従兄は絶叫した。その声をかすかに聞きとったぼくはトリケラトプスに手を振りその場を離れ、走った。遠くに従兄らしきものが見えた。近づいてみるとそれは目をかっ開いたまま地面に大の字になって血をぶちまけていた。祭の最後に行われるロックンロール・ステージを従兄はとても楽しみにしていたけれど、救急車に運ばれたせいで行けなかった。ぼくは医者ではないから従兄の体を治す手助けはできない。だから一人でライブを見て、後日従兄の病室へ行って眠っている従兄へライブの様子を伝えた。話している途中でなんとなく従兄の柔らかい髪の毛――目で見て柔らかさが明らかにわかるから触りたくなってしまう――をつかむように撫でると、突如従兄が目を開け、開けすぎて転げ落ちてきそうな白い目玉でぼくを見、絶叫した。窓の外ではうららかな春の町の上に桜の花びらがちらほら舞っている。ああそうか今は人が狂う季節だとぼくは思い、ズボンのポケットから透明な袋に入った錠剤を取り出すと暴れる従兄を押さえつけ無理矢理口に押しこんで噛み砕かせた。従兄は涙を流していた。哀しかった。どうしてこんなことになってしまったんだろうと思いながら窓の外を見ていた。


早介と涼介

という仲良しの二人がいた。二人は親友と言ってよかった。本人たちは親友なんて言葉を思い浮かべることさえなく一緒にいる。私たち親友だよね、という言葉で繋がないと不安な女子たちとは違った。ぼくにも親友はいないからうらやましくて、よく二人のことを見ていた。できれば二人の未来までを見届けたかった。


それからどうした?

 早介んちの金魚屋は潰れた。
 涼介は陸上選手になったけど足の腱を切ってしまった。
 二人で会社を立ち上げた。
 ぼくは仕事で二人の会社へ行った。高層ビルの最上階の、勾玉みたいな形の広いだけでデスク以外何もない部屋に二人はいた。早介は窓を背にデスクにつき、涼介はそのデスクの上に尻を乗せている。
「お前は相変わらず子供みたいな顔をしているなあ」早介が前に立つぼくへ言った。
「子供の頃から子供みたいな顔だったしね。二人はおっさんになった」
「偉くなったからそう見えるだけだよ」オリーブ色のスーツを着た涼介が言った。
「涼介はおっさんだけどスタイルのいいおっさんだね。足がとても長い」
「ありがとう」
「それで持ってきた案件というのは?」早介がぼくに尋ねる。
「上司に渡されただけだからよくわからないんだけど、透明な四角い箱型のストラクチャーというものらしい。何に使うんだろうそんなもの?」
「お前にはわからないと思うが俺たちにはわかるから大丈夫だ。見せてみなさい」
 ぼくは紫色の巾着袋をデスクの上に置いた。早介が巾着袋を開いて中を覗きこみ、ふーむと言った。
「涼介は昔から足が速かったよね」と暇なぼくが言った。「モテモテで羨ましかったな」
「足が速くて何になるんだ。どうがんばってもチーターには勝てないのに。あんなんで喜ぶ女子なんかくだらない、って思いながらずっと走ってたよ」
「でも走ってるときの涼介は風みたいでやっぱりかっこよかったよ。チーターが走っても風みたいだとは思わないんじゃないかな」
「まあ今は昔の話さ」
 ぼくは小学校の体育の授業で、珍しく涼介が転んで膝をすりむいたときのことを思い出す。足もひねってしまったらしくて、地面に座って膝を立てていた涼介へガーゼを持って駆け寄ったのは早介だった。女子たちは小さな壁をなして二人を見ていた。手当てしているのが他の女子だったら陰口の嵐だっただろうけど、早介ならば仕方がない、それに自分が取って代わることができると考える女子はいないようだった。いや、一人だけ、背の高いモデルみたいな高飛車な女子が涼介に手を出した。ある日その女子は長い手足を杭で打たれトイレの壁に磔にされているところを見つかった。イエス・キリストと同じ姿だった。暗い目をした女子の一群が修道女みたいな格好で聖書を左手に白い数珠を右手にかけて廊下を歩いていて、すれ違ったぼくは身震いを抑えることができなかった。
「あーあの女子たちなら」と涼介が言った。「今うちの会社で雇ってるよ」
「えっ帰らせてもらっていい?」
「あはは。従順で役立つけどな」
「この歳になるまでずっと涼介を追ってきたってこと?」
「まあそうなるかな。中学のときは、俺が道端のタンポポ摘んでるとこ、電信柱の影からやつらが見てた」
「あの人たち喋るの?」
「仕事に必要なことだけは。社員食堂にいるところ、機会があったら見てこいよ面白いから。完全に魔女の集会だぜ」
「あんまりいいように使ってるとそのうち復讐されるんじゃない? 結婚したときとかヤバそう」
「俺が選んだ相手には何もしないから大丈夫だよ」
 涼介はそう言って、まだ熱心に巾着袋の中をためつすがめつしている早介を見下ろした。


追憶の星

 二人が小四の夏に望遠鏡を奪い合って覗いていた星には宇宙人がいた。地球から見れば何でもない米粒みたいな星だったけれど、二人にとっては何かがあったんだろう。もちろん宇宙人の姿が見えていたわけではない。宇宙人の方では望遠鏡を向けられていることを知っていた。宇宙人も二人で膝を抱えて座っていて、地球の二人と似ていなくもなかった。
 その星にはかつてはいろいろなものがあったけれど、今は何もなかった。少なくともないということにされていた。残った宇宙人二人の仕事はただ過去に思いを馳せることだった。そうしているうちは、かつてはあったという記憶だけは続く。だが、自分たちが死んでも星が覚えてくれているのではなかろうか、と宇宙人は思った。それならわざわざ自分たちが過去を見続ける必要もない。この何もない世界や、自分に訪れる死を見ることだって許されるんじゃなかろうか。二人ともそう思いながら、口には出さなかった。過去以外のものに目を向けることは禁じられていたからだ。決まりを破った者は殺されることになっている。そのために二人が残されているのだった。二人は過去の思い出話をすることもあった。けれど、相手が自分を監視し処罰するために存在しているという事実が常に胸の奥、冷たい塊としてあった。相手を殺せば自分も孤独に耐えきれず死ぬしかないのはわかっていた。何も話さずにそれぞれ全然違う過去を見上げているときでも、体はずっと隣に座っている相手の存在を感じていた。我々はどうして一人で完結していないのだろうかと宇宙人は思った。孤独は生命の設計ミスだ。この宇宙のどこかには、孤独を感じない知的生命体が存在するのだろうか。その考えをあまり広げすぎて過去から離れてはいけないので、宇宙人はそこで考えるのをやめた。


灰の舞うお城

ぼくは会社でトリケラトプスに乗っている。天井の電灯を替える時に脚立を持ち運ぶ必要がないのでとても便利だ。
ぼくが仕事をしている間、トリケラトプスは社員の子供たちの遊具となっている。上にまたがった子がホースで水を撒き散らす。
本当に忙しい時期には明るい会議室の床でみんな寝袋にくるまり眠る。真っ白な寝袋があちこちに転がっている様は蚕の養殖に似ている。
夜中に目覚めて壁にかかっている時計を見上げ秒針がじりじり動いていくのを見ながらぼくは眠子のことを思い出す。眠子は定職につかず演技をやっている。この前小さな劇場へ観に行ったらクレオパトラの役をやっていた。
「みぞれさーん」といつものようにトリケラトプスの上で電灯を取り替えていたぼくへ、ピンクのバインダーを持った女性社員が呼びかける。「なんかみぞれさんに会いたいって人が来てるんですけど」
「えっ誰?」
「なんか女の子です。女子大生くらいの」
「会いたいって言われてもなあ」
「社長がそっち行ってこいって言ってました」
「え本当に? なんだろう怖いな」
 ぼくはシュタッと飛び下りてトリケラトプスのざらざらした横腹を撫でる。恐竜の皮膚には人間の体にはない歴史の落ち着きがある。きっと他のどんなものよりも一生ぼくに平穏を与え続けてくれるだろう。
「そんな考えだからさ、みぞれさんは生涯独身で恐竜と添い遂げるんですよね、ってみんなから言われてるんだよね」
 とぼくは会社のロビーの応接スペースで、ぼくに会いにきた灰色のセーターの女の子に話す。
 ぼくがロビーについたとき、彼女は自動ドアの外からじっとこっちを見つめて立っていた。自動ドアの目の前にいるのにドアが開かないのが不思議だった。対応してくれた人は中に入ってお待ち下さい、と言ったそうだけど、彼女はぼくが来るまでそのまま待ち続けると言って断ったのだそうだ。
「恐竜と、ってカモフラージュだよね?」と彼女が言う。「他の女を避けるために、嘘ついててくれたんでしょ?」
「君のためにってこと?」
 彼女はうなずく。
「なるほど」
「迎えに来てあげたからもう大丈夫だよ。わたしの名前は覚えてますか?」
「はい?」
 彼女は満足の笑みを浮かべてうなずく。
「ねえ、わたし、自分でお城を見つけたよ。近くにあるから、今から行こう」
「わかった」
 社長命令だし、仕方がない。
 二十分くらい歩いて、お城の前にたどり着いた。
 国道沿いの、さびれたラブホテルだった。
「まあ日本でお城って言ったらこうなるよな」
 ぼくはそこを知っている気がした。地元にも似たようなラブホテルがあった。小学生の頃は本物の城だと思っていた。そのホテルでは自殺者が出たって話を聞いたことがあった。
 ぼくたちとホテルの間には巨大な駐車場が横たわっている。昼下がりなので車はほとんど停まっていない。
「何の建物だかわかってる?」
「お城」
「そう言うと思ったけどさ」
 帰ろうかなと思ったけれど、後ろを見ると木陰にらっきょうみたいな形の頭をした係長が隠れてこっちを見張っていた。唇を引き結んで眉間に皺を寄せているその表情は、明らかに先へ進めとぼくを促していた。
「行こうか」
 部屋はけっこういい感じだった。とりあえず道中で買っておいたタコ焼きを食べた。
彼女は鏡の前に立って自分の姿を見ていた。
「食べなくていい? タコ焼き」
「わたしお腹に赤ちゃんいるから」
「本当に?」
「嘘」
 本当かもしれないな。
「わたし、今、シンデレラになれてるのかな?」振り向いてぼくを見て言った。
「王子様がいないとね」
「踊ろう」
 手を取りあってゆっくり回った。ぼくの革靴が絨毯をこする。彼女の髪の毛がなびき、空気を打ち払う。縦長の四角い窓から、ぼくたちの踊っている床へ、静かに光が差している。窓の向こうの空は白い。ほとんど空しか見えない。
「わたしを見て」と彼女が言い、窓の前に立ち止まった。逆光で彼女の顔は暗い。ぼくは彼女の頭の向こうの白い空を見ていた。
「みんな、わたしの手に入らなくなった」ぼくの手を握ったまま、彼女は言う。「何も手に入らないシンデレラっておかしいと思わない?」
「なにも手に入らないシンデレラ」ぼくは空を見たまま繰り返した。「いや、それは素敵だと思う」
「そう? じゃあわたし、なにも持たないようにするね」
 そう言って彼女はぼくの手を離すと、自ら服を脱ぎ落とした。ぼくはその体をまじまじと眺めた。彼女はただ立っていた。
 それ以上、ぼくたちはどこへも進めなかった。


愛なき世界

 次に彼女と会ったのは居酒屋だった。
 ぼくはビールで、彼女はよくわからない黄色い飲み物で乾杯をした。ぼくたちは木でできたカウンター席に座っていて、後ろの床をネズミがとたとた走っていった。
「これでわたしたち兄弟になれたの?」一口飲んでから、彼女は言った。
「兄弟?」
「盃を交わしたから」
「ああそうだね。盃を交わしたから」
「ふふん。やったー。わたしは妹?」
「いや、弟だね」
「女なのに?」
「盃は心の問題だから。体の性別は関係なく、男と男の誓いになるんだよ」
 と、なんとなくイメージだけでぼくは喋った。
「ふうーん」と彼女は言った。「じゃあ、姉妹になるにはどうしたらいいの?」
「うーん……マカロンを食べさせあうとか?」
「何色の?」
「パステルカラーの茶色と紫」
「それ、やろう?」
 そう言って、彼女は椅子から立ち上がった。
 次の日曜日、童話に出てくる森の中の家を模した写真スタジオの白いファンシーな部屋で、彼女もぼくも白いワンピースを着て床に座り、マカロンを食べさせあうところを撮影された。
「これ、会社にバラまかれたらぼく終わりだな」
「大丈夫だよ? お姉ちゃんがそんなことさせないから」彼女が笑顔で言った。
「え? ぼくが妹なの? 倒錯してるなあ……」
 なぜかカーペットの上をけっこう大きなカタツムリが這っていた。這った後に残った粘液が天の川みたいに艶めいている。
「なんかエッチだよね」と彼女が言う。
 天井を見上げると小さなピエロのぬいぐるみが腹を縄でくくられて吊り下げられている。昔ぼくの夢の国に住んでいた道化を思い出した。いや今でもあいつはぼくの夢にいる。というかあいつしかいない。国は荒廃して空には雲が大地には荒野が広がり、そのどちらも濃い灰色をしている。あの道化の体と同じ色だ。その景色の中に、戦地の子供たちのようなやせ細った体をした道化が気をつけをして立ち、ぼくに向かって言う。
「いよいよ私が笑わせる相手はあんたしかいなくなりました」
「お前は一度もぼくを笑わせたことなんてないよな」
「そうです国王様、あなたの手に残ったのはできそこないの道化だけです」
「そうだ、そういうぼくを不快にしかさせないブラックジョークばかり言って、笑ってるのはいつもお前の方なんだ、いつも。できそこないめ」
「はい」道化は嬉しそうに口を歪めた。ような気がした。
 気づけば彼女がヒョウのように這って顔を近づけ、ぼくの顔を覗き込んでいた。
「みぞれちゃん、お姉ちゃんに隠し事があるんじゃない?」
「隠し事の一つや二つないと、女はダメだよお姉ちゃん」
「それは昔わたしが教えたことでしょ?」
「それがどうしたの? いつ誰が言おうと言葉は言葉だよ。ぼくが信じてるのはお姉ちゃんじゃなくて言葉だ」
「どうしてそんな酷いこと言うの?」
あざとく泣き出した彼女にカメラが迫り、フラッシュを焚く。ぼくはカメラを向けられるのが嫌いだ。暴力的で抵抗できなくてなすすべがないから。撮られたくないものを永久に残すなんてなんて非人道的なんだろう。
「みぞれちゃんが嫌いなのはカメラじゃなくて自分だよ」急に泣き止んだ彼女が頬に涙の筋をつけたまま、とろんとした目で言った。「ねえわたしたちさ、次会ったらもう二度と会えなくなるのかな」
「そうなの?」
「次で会えるのは最後でしょ?」
「そうなのかな」
「そうだよ。だからわたし、もう会わないようにする」
「次が最後なのに?」
「最後だから取っておくの。本当に二度と会えないのと、会おうと思えば会えるってわかってて会わないのは違うよ」
「希望があるんだね」
「そう。愛なき世界にも希望はあるの」
「きみの会話はいつも詩的だね」
「仕方ないよ、わたしは詩の中で暮らしてるから」
 夕暮の街角でぼくたちは手を振って別れ、生き別れの兄弟姉妹になった。


怪物がやってくる

 電車の窓から見た、名前もないような田舎の風景がぼくの心を惹く。そこに住んでいる人を除けば、多くの人にとっては電車で通り過ぎられるためにしか存在していない場所。
 休日、そんな場所の一つへ行ってみた。知らない電車に乗って、知らない土地へ。いくつもトンネルを抜けた先にその駅はあった。駅にも駅を出た周りにも誰もいなかった。山が見えたのでそっちへ進んだら田んぼのある村に入った。
鍬を持った村人たちが、ゲームの中のゾンビみたいに頭を斜めに傾けて立ち、ぼくを見ている。その村には怪物がいるとの噂もあったけれど、村人がゾンビだから怪物はいらないんじゃないかと思った。とりあえずゾンビの写真を撮った。一枚目のゾンビはキョトンとしていたけど、二枚目を撮るときは調子に乗ってピースを向けてきた。笑顔になったので歯が見えた。薄汚れていて前歯が一本抜けていた。
 よくわからない廃工場のような茶色く錆びた建物へ行くと、中では大きなミシン台みたいなものに寝かせた子供を、ひょろ長いおばさんが布団たたきでばしばし叩いていた。病的に白い肌をした子供は叩かれながら身を捩って笑い、叩いているおばさんは必死で酸素が足りてなさそうな息遣いをしていた。
 この村は子供を罰する力さえ失ったんだなとぼくは思った。限界集落の性、人間の悲しみ……。
 もう人間を超越している感じの、たぶん目が見えていないおじいさんの家に招かれてお茶を飲みながら話を聞いた。おじいさんの家は先祖代々村を訪れる旅人をもてなす役割をしていること。奥さんはもう亡くなり、一人娘がいたけれど薄いピンクの帽子を被ってスーツケースを引きずり村を出ていって、都会でモデルをやっていること。大富豪と結婚して夜は夫にお姫様抱っこされてたくさんのカメラのフラッシュを浴びながらパーティーからパーティーへ渡り歩いている。パーティーのない夜は真っ暗な自分の部屋で、ときどき窓の外の深い青い夜空の三日月を見上げながら、羽ペンと青いインキで父親への手紙を書いているけれど、いつも途中でくしゃくしゃと丸めてくずかごへ捨ててしまう。そして手紙のかわりにお金を送る。そこは銀行のATM コーナーで、機械に向かう彼女の後ろの自動ドアの向こうにずんぐりした黒ずくめの男が立って彼女のうなじを見ている。
 それから、おじいさんは怪物の噂についても教えてくれた。怪物の伝承はたしかに存在するが、「怪物がいる」というのは間違いで、「いずれやってくる」というのが正しいらしい。そしてその「いずれ」は実は今なのだとおじいさんは言った。
 がさ、と音がして背後を振り向くと、明るい縁側の日なたの中に、バットを持った灰色の囚人服の男がいた。
「やあみぞれ。久しぶり」とその大男は言った。「何年ぶりだろう?」
「竹元くんか」
「そうだよ。タケモトだ。俺、この近くの牢屋に住んでんだ」
「ぼくを監禁しようとしてから、ずっと捕まってたの?」
「いや、あの後、風呂場でしゃがみこんで、ピンクの服着た女の子の肩をハンバーガーみたいに食べようとしてたりしてたら、ちゃんと牢屋に入れられたんだ」
「それは入れられても仕方ないね」
「でもそんな女の子なんて本当はどうでも良かった。ずっとみぞれだけを探してた。みぞれがずっと俺の傍にいてくれれば牢屋になんか入らずに済んだんだ」
「それは悪かったね」
「牢屋の中でもずっとみぞれのことを思ってた。思わない日はなかった。天使かイエス様の格好をしたみぞれがいつも牢屋の壁と天井の境目に浮かんで俺を見下ろしてた。俺は飽きずにそれを見てた。そいで、今日牢屋の四角い窓の外の明るさを見てたら、みぞれが来るってわかったから、ダツゴクしたんだ。
 みぞれは、なにしてたんだ?」
「普通に、高校行って、大学行って、今は会社勤めだよ」
「あの女とはどうなった?」
「あの女って?」
「みぞれが先輩って呼んでた女」
「ああ。あの人とはもう、卒業以来ずっと連絡取ってないよ。思春期の片思いなんてそんなもんじゃないかな。今じゃ特に悲しいとも思わない」
「本当か? まだ好きなんじゃないか?」
「……そんなことはないな」
「それなら、みぞれの心の隙間は、ぽっかり開いたままなんだな」大男はニタアと笑った。
「心の隙間。懐かしい言葉だな」
「俺が埋めてあげる」
「いや結構です。もう塞がってるかもわからないし、開いたままだとしてもそれはそれでいい。それを抱えたまま死んでいくのが人間だと思う」
「そんな悲しいこと言うなよ。大切な人がいる人生は幸福だぞ。みぞれが俺にそれを教えてくれた。今度は俺が教える番だ」
「……あのさ。大切な人が云々、っていうのはたしかにそうだけど、きみがぼくのそれになれることは、ないと思うよ」
 大男の目が驚愕に見開かれた。もっと早く明確に拒絶をしておくべきだったなと思った。ぼくの責任だ。大人は責任を取らなければならない。ぼくはもう大人になってしまった。

 大男の体だったものは、乱暴な子供の手でバキバキに折られた人形の残骸のように地面に横たわり、日に照らされていた。残骸の上を黄色い蝶々が舞っている。男の魂だろうか。
蝶々は太陽へ吸いこまれるように飛んでいって、見えなくなった。遠く空の向こうまで飛んで行くことができたのか、それとも太陽に焼き尽くされて消えたのか、ぼくには分からない。
 ぬちょ、とした感触がして見下ろすと、ぼくの手のひらは赤黒い血で汚れていた。
「そうです」と後ろで一部始終を見守っていたおじいさんが言う。「あなたが我々に待たれていた怪物なのです」
「……ぼくは何をすれば良いですか?」


対話

「みぞれ、よくも俺を殺したな」
「殺してないよ」
「怒るなよ。冗談だろ? 誰もが幽霊になったら一度はやってみたい悪戯じゃないか」
「幽霊じゃないじゃん」
「比喩的な意味で、間違いなく幽霊だよ。社会の幽霊、人間関係の幽霊、ネットワークの幽霊……今の時代のほうが、幽霊ってはるかに多いんだぜ」
「相変わらずだね、兄ちゃんは」
「相変わらずためにならないだろう? 俺の話。そこだけは誇りを持ってるんだ」
「そんなだからいつまで経っても工場労働者もどきなんだよ」
「工場労働者をバカにするな」
「いや、もどきだから馬鹿にしてるんだよ」


工場労働者もどきに関する四つの断章

①工場労働者もどきは工場服を着て工場へは行かず、サンタクロースがプレゼントを入れる袋の巨大なやつを引きずりながら、工場内の敷地を練り歩く。

②工場労働者もどきは野球を好み、休み時間にグラウンドで野球をしている本物の労働者たちの仲間に入れてもらおうと手を振り駆け寄るが、本物たちからは白い目を向けられる。それに気づかないのか、気づかないフリをしているのか知らないけど、構わず笑顔でバッターボックスに乗りこんで無理やり打者を交代させ、打った白球は空の彼方、雲の中にスポッと消える。場外ホームランでボールは戻ってこないから、試合はそれ以上続かず、みんなぞろぞろ引き上げる。

③工場労働者もどきは暇つぶしとして、食堂の工場労働者が食べている最中の天ぷらそばの上へ、カナブンのふりかけをまぶす。

④工場労働者もどきがこのような狼藉の限りを尽くしてもリンチに遭わないのは、彼が工場長の息子だからだと言われている。禿げ上がった頭を帽子で隠そうともしない工場長は工場の敷地内のどこかの秘密の部屋に潜んでいる。その暗い部屋の暖炉の前の小さな揺り椅子に工場長は座り、絨毯の上にお座りして尻尾を振っている白黒の子犬のきらきらした目玉を見下ろしている。ときには息子と思われる工場労働者もどきがやってきて工場長の靴を舐めたり、さつまいも色のソファーに寝転んで大きな袋入りのグミを貪ったりする。


さいごの対話

「要するに工場労働者もどきってニートじゃないか」
「違うよ。ニートは何ももどいてないだろ? 何かをもどくという行為が現代社会の諸問題の表象として――」
「もういいわかったよ。不思議だよね。社会のこと考えてるのは社会で働いてない人間ばかりだ。遊びでしかないよそんな考えは」
「俺はいつまでもゆらゆらと遊び続けるよ。おまえもそうしたいんじゃないのか?」
「兄ちゃん、ぼくはもう大人なんだよ」
「いろんなことをすっかり忘れてしまうのが大人になるってことか? それで俺を殺したのも忘れたのか」
「だからさ。兄ちゃんが死んでるとしたらあんたは誰なんだよ」
「それを俺もずっと訊こうと思ってた。おまえはさっきから、誰と話してるんだ?」

 目を開けるとぼくは病室にいた。周りには誰もいない。ここが病室だとすれば、電話は許されていないはずだから、ぼくはさっきまで頭の中で話していたことになる。
このベッドには見覚えがある。従兄がいたベッドだ。実際にこのベッドの上にいるとわかりにくいけれど、やってきた見舞客としてベッドと自分を客観的に見れば、一目瞭然だ。そしてその見舞客というのは、中学の頃ぼくが着ていた深い青の制服に身を包み花束を持った眠子だった。
「ご丁寧に髪型まで当時のぼくに似せやがって」
「大丈夫? ぼく」
「大丈夫だったら入院してないんじゃないのか」
「なんで入院したの?」
「それが思い出せなくて困ってるんだよ」
「そうか。それについてはぼくも知らないんだ。教えてあげられなくてごめん」
「お前そういうとこあるよな」
「どういうところ?」
「肝心な土台が抜けてるようなところ」
「なにを語ってもふわふわしている」
「自分が現実にいるのか夢の中にいるのかわからない。ここは現実だと思うけど、感覚は夢の中にいるような感じしかしないなら、現実に意味なんてあるのかな?」
「死んでもいいんじゃないかな?」
「眠子、おまえぼくに死んでほしいのか? 死んだら夢も現実もクソもないよ」
「それでいいんじゃないかな? そうなりたかったんじゃないかな? だからぼくは、あの日屋上から飛び下りたんじゃないのかな?」
「眠子」
「日に照らされた地面の柔らかな雪に頬をのせて永遠の眠りについたぼくは、胡蝶の夢を見ていました」
「眠子、悪かったよ。あの時、騙すようなこと言って」
「謝らないで。ぼくは悪くない」
「いや、悪かった」
「悪くない」
「悪かった」
「悪くない」
「悪かった」
「……悪かったとしても……悪かったから、ぼくのこと、ずっと好きでした。ぼくはずっと、ぼくになりたかった。……あれ、おかしいな。ぼくはもうぼくになっている。でもまだ完璧じゃない。あともう少し……最後の一ピースが……」
うつむいて喋っていた眠子が、顔を上げてぼくの目を見た。
「ああ、揃うんだ。今ここで」
そして花束の後ろから拳銃を取り出し、まだ微睡んでいるぼくの頭を吹き飛ばした。


はじまり、はじまり

 ある晴れた平日、会社からトリケラトプスが搬出されている。堅いプレートのような担架に赤いロープで縛りつけられ、青い制服の人たちに運ばれトラックへ向かう。
 それを遠巻きに見守っている女性社員の横へぼくがやってきて、「何があったんですか?」と尋ねる。
 女性社員はちらっとぼくを見て、「飼い主の人が死んじゃったんです」
「なんで死んだんですか?」
「ストーカーに殺されたんです。実は見たんですよ、私そのストーカー……かわいい女の子だったけど、目がこの世にないというか……人間を草か何かと同じように見てる感じでした」
「それは恐ろしいですね。殺された人はかわいそうだ」
「ですよねえ。いい人だったのに」
「やっぱりいい人だったんですね」
「やっぱり?」
「ええ。殺されるのはいい人ばかりと相場が決まっています」
「そうかなあ? 恨みを買った悪い人もよく殺されてるんじゃ……? もしかしたらあの人も、いい人ヅラしてたけど裏では痴情のもつれがあったのかも……」
「その人に限って、そんなことはないと思いますよ」
「? 知り合いなんですか?」
「まさか。ぼくは学生ですよ。サラリーマンの知り合いなんていません」
「ふうん。なんだかあなた、あの人に似てますね……」
「ぼくにはそういうところがあるんです。亡くなった人の面影を被せられやすいようなところが」
「へえ。変な人」
「それは間違いありません。だからぼくはぼくが好きなんです」
「へえ……」
「それで、あの遺品である恐竜はどこへ運ばれるんですか?」
「それがわからないんです。社長は行先を知ってるみたいだけど、極秘にされてて……」
「では、ぼくが探ってきましょう」
「えっ?」
 そう言うと、ぼくは近くに生えている木の後ろに隠れた。そして一分後、恐竜を運んでいる人たちと同じ格好になって出てくると、そのまま小走りでトラックの荷台、銀色のコンテナの中へ乗りこんだ。
ガタガタ揺られるコンテナの暗闇の中に、トリケラトプスと、膝を抱えたたくさんの作業員たちが座っている。作業員たちは誰も言葉を発さなかった。それぞれの人生の別の場所に思いを馳せているんだろう。そういう意味で、きっとぼくだけがその場所にいた。闇の中のトリケラトプスの顔を真正面から見つめ、耳に聞こえない言葉を聞きとろうとしていた。
トラックが停まったのは一軒の民家の前だった。コンテナの扉が開かれ、トリケラトプスがその家へ搬入される。家の中は西洋のお話に出てくる平民の部屋、という感じで、木造の質素な家具が置いてある他に特筆すべきものはない。部屋は一つだけで、トリケラトプスには狭苦しそうだったけれど、運び込まれるとその恐竜は自ら床の空いているスペースへ行って座り込み、目を閉じて、何万年も前からずっとそこにいるかのような自然さに収まった。
そんなトリケラトプスの様子を確認すらせず引き上げていく作業員たちの波間に、寝癖でボサボサの頭をした若い女の人が立っていた。その人は髪をかき乱してあくびをしながらトリケラトプスを見ていたけれど、ぼーっと突っ立って自分を見ているぼくの存在に気づくと、こちらへ目を向けた。
彼女の目を見た瞬間に、これが例のストーカーだとわかった。たしかに彼女の瞳の中で、ぼくは人間の姿ではなく、弁当に入っているようなただの草としか映っていなかった。
「何?」と彼女が言う。
「どうしてあの人を殺したんですか?」
「わたしが殺したのかな? 覚えがないんだけど」
「でも会社の人がそうだって言ってました」
「そうなんだ。わたしって大体のことは忘れちゃうんだよね。本当に大切な約束は覚えてるけど……」彼女はトリケラトプスに目を向けた。「この子の皮膚はわたしの名前と同じ色をしてる」
「あなたの名前は?」
「胚」
「それなら知ってます。死んだ人に聞きました」
「仲良しだったの?」
「そうですね。嫌というほど」
「わたし、嫌なんて思ったことなかったな……」
「それは、愛が足りてなかったんでしょう」
「愛って何?」
「知りませんか?」
「知りません」
「じゃあ、ぼくが教えてあげましょう」
「ほんと?」
「はい。この家に住ませてくれればね」
「いいよ」
「ありがとう」
「あなたの名前は?」
「ぼくの名前は……」
 返事をするかわりに、ぼくは彼女の見ている前で服を脱ぎ、学校の制服に着替えた。それで彼女にはすべてが伝わった。
 こうしてぼくたちは新しい生活を始めた。
 朝、彼女が湯気を立てる鍋の中の白いスープをおたまでかき混ぜ、ぼくが机の上に食器を並べ、奥ではトリケラトプスが、もう待ちきれないというように鳴き声を上げ、それが家の上の青空に響き、ぼくと彼女は小さく笑いあう。
 そんな生活だ。
 ある日彼女が市場で花の繭を買ってきた。果物ナイフで切り開いてみると、中では小さな黒い男の子が丸くなって眠っていた。
「どんな夢を見てるんだろう?」とぼくが言い、ぼくたちは想像を広げて語りはじめると、けっして語り終わることがなく、そうして無数に浮かんでくる夢の島々の上を、繭から飛び出した黒い男の子が生まれたままの姿でいつまでも、いつまでも跳ね回っている。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?