娼婦と野良犬

 本当は十七歳だけど工場では二十歳と言い張っていた。なるべく老けて見えるよう、髪をボサボサに伸ばしヒゲを生やして、作業着もわざとクリーニングには出さず、薄汚れたままにした。タバコと酒はもちろん、競馬、パチンコ、風俗、麻雀、周りがやっていることはとりあえず手を出した。どれも本当に興味があるわけではなかったから、出費は最低限に抑えて……車は買わなかったけど雑誌やネットで知識はつけて、話題には事欠かないようにした。自分の無力さはよくわかっていた。無力な人間が一人で生き延びるためには、みんなに合わせることが必要だ。頼るのではなく、合わせる。少なくとも、彼の働く工場では、弱いくせにひとりを好む人間は犯罪者のように扱われた。避けられ、いじめられ、仕事もちゃんと教えてもらえない。そういう人間を見ると、昔の自分を思い出した。まっすぐでバカな子供。独りきりで、誰よりも世界を憎んでいるような面でうつむいているそいつが、こっちをにらむ。嫌悪のまなざし。そんな目で見らんでもいいやろ、と彼はそのガキに喋りかける。力抜けや。俺はお前を否定しとるわけやない。今の俺と昔のお前と、どっちが正しいとも思っとらん。ただ、こうなっただけや。なるようにしかならん、俺たちは。大きな流れみたいなもんがあって、その方向に進んで行くのは、良いことでも悪いことでもない。ただ、そうなるんや。
「なんか最近面白いことあった?」隣で寝ている裸の女が言う。六畳一間の真ん中に敷いた布団の上に、彼と女は横たわっている。土曜の昼過ぎ、時間は溶けて、正確な時刻はわからない。二人がそれぞれ指に挟んだタバコから白い煙が上がり、木の天井に消えてゆくのを眺めながら、「子供の頃の自分に会った」と彼は言った。
「へー。どこで?」
「工場」
「えー。なんで子供がおるん。おらんやろ」
「おったわ」
「やけ、それ普通の子供やないやん? ドッペルゲンガーやない?」
「近々死ぬんか、俺」
「タバコやめたら?」
「原因そこやないやろ」
「じゃあ何? 労災?」
「どうせならもっと清々しく死にてえなあ……ホームベースに滑り込んだ瞬間とか」
 野球は唯一、彼がちょっとは楽しいと感じることだった。楽しいというか……バットを振る動作のシンプルさ、上手く球をとらえたときの手応え、ヒューッと飛び出して青空へ吸い込まれていく白球、それをポカンと見送るみんな、その一瞬の空白に降るセミの鳴き声、地上の緑、それらが有機的に組み合わさって、何かを完璧に体現しているような、あの感覚。それを女に言葉で説明するのは無理だったし、する気もない。自分の中で、自分だけのものとして、きれいに完全に保っておいて、普段は忘れ、たまに何かの弾みでふと思い出したい。そういうものだ。
「えー。イッた瞬間がよくない?」
「それお前殺人犯やぞ」
「自分の体で男逝かす、嬢にとってこれ以上の名誉がありましょうか?」
「それ本気で言っとん?」
「うん。人のためになる仕事をちゃんとやっとる人はえらいやろ? あたしはえらい」
「そうやな。えらいわ」
「ありがたき幸せ。……ところでさ、あんたっていつ童貞捨てたん?」
「今更?」
「やー気になってはいたんやけど? 学校行っとらんのに彼女できるわけないし……工場の人?」
「それ聞いてどうするん」
「んー……まーなんとなく初めてはあたしがもらおーかな? って思っとったし? 手塩にかけて育ててきたトマトを途中で引きちぎられた気分よね」
「俺のどこにトマトの要素が」
「いやなんでもいいんやけどさ。ナスビでもキュウリでも」
「生々しい方に寄せるのやめろや。トマトでいい」
「で? トマト君はいつ食べられたん?」
「……十四くらいかな」
「それ犯罪やん」
「今も犯罪やろ」
「四捨五入して二十歳やし」
「四捨五入とか知っとんや」
「バカにしすぎー。……誰? 相手」
「オバサン」
「マザコン?」
「ふざけんな」
「え、病気とかもらってないよね?」
「金持ちやけ大丈夫やろ」
「あー……お金かあ。言ってくれたらあげたのに」
「そこまでする義理ないやろ」
「義理っていうか、あげたいだけ」
「他人やろ。金の線引きは必要」
 イソーローしてるくせによく言うよ。まだその人と続いてるの? ……女はそんな言葉を飲みこんで寝返りを打ち、向こうを向いて、床の上に置いてある灰皿へ、タバコをぐりぐりと押しつけ、目を閉じた。彼はしばらくの間タバコを吸い、白い煙を天井へ送り続けていたけれど、やがて体を起こし、灰皿へタバコを放って、寝息を立てている女の顔を少し眺めた後、立ち上がり部屋を出て行った。
ドアの閉まる音がすると、女は寝息を止め、静かに目を開けて体を起こし、灰皿から彼の残した吸い殻を取って咥え、窓の外、大きな青空と入道雲を見上げた。また男が去って行った。実感はない。しばらくしてから気づいて、一人で泣き、また別の男を拾って帰ってくるのだろう。
彼を拾ったのは、冬だった。すでに雪に埋もれた町へ、さらに絶え間なく雪が降り続く。空も存在しないみたいに雲に覆い尽くされ、景色のすべてが薄い灰色に、かすんでくぐもっていた。誰の姿も音もない町を、黒いダウンジャケットのポケットにつっこんだ腕にビニール袋を下げて歩いていた女は、通りかかった公園のブランコに、一つの黒い姿が座っているのを見つけた。近づいてみると、黒いダウンジャケットとズボンに身を包んだ少年で、両手をポケットに入れ、鼻から下を服に埋めるようにして、目を閉じ、頭にかぶったフードの上に雪が積もっていることにも全然気づいてないみたいに、石のようにぴくりとも動かなかった。
「死んどるん?」
目の前に立って女が訊くと、少年のまぶたがかすかに開いて、目だけが動き、女を見上げた。石灰石のような瞳――人間のものではなく、昆虫か爬虫類の目玉だった。
「まだ生きとうみたいやけど、ずっとそこおったら死ぬよ。家どこ?」
少年は目を下げて、何も言わない。
「親は? おらんの?」
「…………」
「……うち、くる?」
 間を置いた後、少年はかすかに頭を動かした。ような気がした。女はそれを、うなずいたのだと思うことにした。家に帰ると、少年をこたつに入れ、カップラーメンを食わせてやった。湯気を立てる麺を、少年は犬みたいにガツガツ食べた。向かいで頬杖ついてそれを見ていた女は、こんなにカップ麺をおいしそうに食べる人間、はじめて見たかも、と思い、自分も食べたくなって台所へ立った。少年は食事を終えると、まぶたの開ききらない少し眠そうな目で、窓の外の白い世界を見上げていて、女は麺をすすりながら、何を考えているのかわからない、少年のふしぎな横顔を見ていた。やがて少年はこたつに入ったまま、少し紫がかった白いカーペットの上で、寝はじめた。あどけない寝顔だったけど、微妙に仏頂面のようでもあり、大人に「かわいい」と言われるのを拒んでいるような気配があった。手を伸ばせばすぐに目を開け、にらみつけてきそうな……人をにらむときだけ、はっきり輝く黒い瞳。野良犬みたいなその少年は、自分のことを語ろうとせず、女も深く掘り下げようとはしなかった。近づきすぎれば離れていく、野良犬とはそういう生き物だと、女は知っていた。
「なんかやりたいこととかないん?」と訊いてみたことがある。
「……ない」
「えー。将来の夢とかさ」
「ないわ。おまえは?」
「えー? もう将来ってトシやないしなあ……生まれ変われたら、OLになりたいかな」
「なんで」
「なんか、ふつうのオフィスで、地味な制服着てさ、コピーとかお茶くみとか、やってみたいやん。ふつうの女みたいに」
「ぜんぜんわからん。つーか、なれるやろ。今から」
「んー……お金がねー……」
「こんな部屋で、そんな金使う?」
「家族に仕送りせないけんけ」
「ふーん。家族って荷物やな。捨てれば?」
「いやー。育ててもらったし」
「ふーん。……おれも荷物やな」
「あんたは大して金かかってないし。犬と変わらん」
「……犬ってなんで生きとんやろうな」
「シソンを残すため?」
「子供をつくりたくない犬はどうするん?」
「うーん……生きるために生きる?」
「ああ」
「毎日を過ごすだけでせいいっぱい。あたしもやな。でもえらいよ、ちゃんと動いて生きとるだけで。犬もあたしも立派!」
「……おれもそうしようかな」
「え?」
 見ると、彼は寝ていた。寝てるフリかもしれなかった。
彼のズボンのポケットから一枚の写真が出てきたのはたぶん、彼が十四歳のときだった。赤いワンピースの女の子が、ホースで水をまいている写真。きらめく日の光、弾ける笑顔。とってもかわいい女の子だった。お天道様に愛されてる、自分とは違う世界の子だ、と思った。考えてみればあの頃からだ。彼がよく外へ出かけるようになり、十五歳になると、自分で仕事も見つけてきて、家賃と食費を半分出してくれるようになった。女はそれを、少年から大人の男への成長だと思っていたけれど、本当は自分にそう思い込ませていただけで、心の底では、拾ってきて飼っていた野良犬が、自分のあるべき姿を思い出し、実現するまでの過程なのだと、気づいていた気もする。だからこれは、自分が悪いわけでも彼が悪いわけでもなく、ただ流れに従ってそうなっただけなんだろう。くよくよすることはない。一緒にいた時間に意味がなかったわけでもない。彼は少なくとも、一人で生きていける力を身につけられたのだろうから。自分も変われたらいいなあ、と彼女は思い、後で昼の仕事の求人を探してみることに決めて、とりあえず眠った。
彼は駅に背を向けて立ち、町を眺めていた。風が吹いている。ポケットから写真を取り出し、見下ろす。赤いワンピースの少女。「友達」の家ではじめてその写真を見たときのことを、鮮烈に覚えている。たぶんこれが「恋」なんだ、と彼は思った。女には言ったことがなかったけれど、自分の人生には「恋」が必要だと、彼はひそかに考えていた。いろいろな本に書いてあった。少年は、恋を経て大人に成長する。直接そう書いていなくても、多くの成長物語が、そういう風にできていた。問題は、写真の少女が何十年も前に生きていたということだった。現在の少女は、もはや少女ではなく、中年の女になっていた。だけどそれはやはり彼の「恋」した少女と同一人物なのだから、彼の相手は彼女しかいなかった。結果、彼はなんとかやり遂げた。だからここに立っている。「恋」は彼の目的地ではなく、越えるべきハードルにすぎなかった。もういらない。写真を破り、風にのせて見送るときも、感慨は湧かなかった。少しだけ引っかかっているのは、彼の飼い主だった、女のことだ。少しだけ、胸が痛い。振り切るように後ろを向いて、駅を見上げた。それが自分の新しい相棒であることを、彼は知っていた。女に教わった。人生の目的は、生きること、動き続けること。電車は彼を運び去り、過去を断ち切り、痛みを忘れさせてくれるだろう。女と二人で生きる、という選択肢は、はじめから用意されていなかったようだ。自分は一人で生きなければいけない、というのが、彼の根本原理だった。なぜそうなってしまったのか、思考の糸をたどって行けば理由は見えてきそうだが、理由なんて、生命活動を続ける上で、クソの役にも立ちはしない。むしろ足枷になるだろう。そうなっているのだから、すべて受け入れて、前へ進む。それでいい。電車に揺られながら彼は、自分の新しい名前を考えた。次の駅に足を下ろしたとき、彼の名前は再び変わり、「G」になっていた。

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